教区長紹介

交わりとしての教会をめざして

1.交わりとしての教会の位置づけ
司教叙階にあたってコムニオ・コムニオーヌム(communio communionum)というモットーを掲げました。叙階後、横浜教区のこれからのヴィジョンをどのように考えているかと幾度となく尋ねられました。司教としてこれからどのように神の民の一部とされる教区を導いていくのかという問いは、司教職を引き受けるその瞬間から自らに問われていることです。強いてこの問いに応えるとするならば、それは司教のモットーに表されていると言えるでしょう。第二バチカン公会議は教会をして「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具である」と定義しました。教会は、父と子と聖霊の交わり、三位の神の交わりへと人々を招く使命を担っているのです。司教の紋章に描かれているように、ヘブライ語でアッバ(父)の文字が入るミトラ(司教帽)で表された御父のいつくしみにつつまれて、鳩で表された聖霊の息吹を受け、キリストの十字架をマストとする船で表された教会は、旅する神の民として世の海原を三位の神の交わりへと巡礼の旅を続けます。マストとなっている十字架の横木は、縦木よりも長めに見えます。キリストは救い主として十字架上にあって大きく手を広げてすべての人を御父へと導かれました。その救いの使命を教会は受け継いでいるのです...キリストの救いの使命を果たすため、教会は自らが交わりと一致のしるしと道具となるよう努めなければなりません。この実現のために一致の秘跡と呼ばれる聖体は特に大切です。教会の交わりと一致の源泉は実にコムニオと呼ばれる聖体にあるからです。紋章のなかでは麦とぶどうをもって表されています。聖体によって、キリストとの一致、またキリスト者相互の一致がはかられ、教会は『キリストのからだとしての教会』として、その交わりを実現しています[注1]

2.交わりの三つの次元
教会論的側面からいうならば、教会にはさまざまな次元において一致と交わりがみられます。ヨハネ・パウロ二世教皇は新しい教会法典を公布するにあたり、つぎのように述べています。「教会は共同体として交わりであり、この交わりが部分教会と普遍教会との間、司教の団体性と教皇の首位性との間に存在すべきこと、同様に神の民のすべてのメンバーがそれぞれにふさわしい形でキリストの祭司的、預言的、王的な務めにあずかる者であり、信者すべて、なかでも信徒も義務と権利をもつ者であるということです。また、教会がエキュメニズムのために払っている努力も、そのような要素のひとつになっています」。ここでは、諸教会の交わり、聖職位階にある人々の交わり、すべての信者の交わりという三つの次元の交わりが指摘されています[注2]

諸教会の交わ
諸教会の交わりということに関して、横浜教区にあっては特に二つのことに関心を寄せたいと思っています。ひとつは、従来、顕著であった小教区中心主義とでもいうべき姿勢の克服です。何事をするにも小教区単位で考えられ、また実際に小教区単位ですべて行われてきました。教会は決して自己充足的な共同体ではありません。自己完結してはならないのです。横浜教区では早い時期からこのような反省に基づく刷新がさまざまなかたちで試みられてきまた。制度面においても教区設立50周年(1987年)を機会に16地区が設けられ、地区の単位で小教区間の協力が積極的に推し進められてきました。自己実現のための場ではなく他者のための存在として教会が理解されるようになり、今では多くの小教区で地域社会の人々との交わりも大切にされています。さらなる発展を祈っています。さて、もうひとつの関心事は、日本の教会の多国籍化という点です。新しい世紀を迎えようとしている現在、この現象はますます進むことでしょう。人種や民族、言葉や生活習慣の違いを乗り越えて、互いの交わりと一致を深め、共に手を携えて教会の使命を果たして行くことが大切です[注3]

聖職位階にある人々の交わ
教皇と司教団、司教と司祭団の間にも、同じ叙階の秘跡に結ばれた奉仕者としての交わりと一致が存在します。さまざまな職務に携わりながらも、叙階の秘跡によって唯一のキリストの司祭職にあずかっている司祭団は、人々へのよりよい奉仕のために、互いに秘跡的兄弟愛によって深く結ばれ、協力し合って働いてゆかねばなりません。そこには教区司祭や修道会、宣教会の司祭といった区別はありません[注4]

すべての信者の交わ
洗礼と堅信の秘跡を受け、キリストの救いの使命に参与しているすべてのキリスト信者(信徒、修道者、司祭)の間にも交わりが存在します。洗礼と堅信の秘跡によって、すべてのキリスト信者はキリストの祭司職、預言職、王職にあずかる者となり、教会の使命を互いに協働して果たします。ラテン語のコムニオは「共に、一緒に」を表すコン(con)と「任務、責任、義務」を意味するムヌス(munus)という二つの単語が合成されてできたことばだと解釈する人もいます。この意味において教会はそれぞれのメンバーが互いにそれぞれの任務、責任、義務を分かち合って、ひとつの使命を果たす共同体(communitas)なのです[注5]

3.基本姿勢
司牧書簡『横浜教区における改革の基本方針』の中では、教区ヴィジョン実現のための様々な取り組みを行うにあたって特に大切にされるべき4つの基本姿勢を確認しています。

意識改革の優先
横浜教区にあっては、組織・制度の改革よりも意識の変革を優先したいと思います。改革が目に見える形での組織・制度の改革に終始してはなりません。教会は霊的共同体でもあります。「教会の社会的機構は、教会を生かすキリストの霊に仕えるのである(エフェソ4:16参照)」。「聖霊は教会の諸制度の魂である」とも言われています。「自分のふところに罪びとを抱いている教会は、悔い改めと刷新との努力を絶えず続けるのである」。罪びとの教会ゆえ、教会は絶えず悔い改めと回心をもって刷新されなければなりません。その意味で、組織・制度の改革よりも意識の変革を優先させなければならないのです。愛における交わりと一致をいまだ十分に生きているとはいえないという謙虚な反省なくして「交わりとしての教会」の実現は望めません。組織・制度も含め教会のあらゆる改革は、信仰の刷新という土台のうえになされてこそ、はじめてその実りを期待することができるのです[注6]

多様性の中の一致の原則
第二バチカン公会議も教えているように教会の交わりと一致は、決して画一性を意味するものではありません。横浜教区は広域に及んでおり、各教会は、それぞれ異なった状況に置かれていることを忘れてはならないでしょう。横浜教区の計画や活動がすべて横浜を中心とした教会を基準として行なわれることのないよう配慮しなければなりません。いわゆる「横浜中心主義」とならないようにということです。組織・制度面での改革も教区単位で一律に推し進めて行くことは実際に困難でありますし、また適当でもありません。各県、各地区の地域性を重んじ、それぞれの特性を活かしながら改革に取り組んで行く必要があります[注7]

補完性の原理の原則
各地域の独自性を尊重するならば、当然その自律性とともに幅広い裁量も認められなければなりません。そのためには補完性の原理の採用もあわせて考える必要があるでしょう。一般社会の機構とは本質を異にする教会の制度・組織においては必ずしもそのまま採用できる原理ではありませんが、今後は教会のなかでもいっそう幅広い適応が考えられて然るべきです。1967年に開催された第一回世界代表司教会議では教会法典改正のガイドラインとなる十の原則が満場一致に近いかたちで承認されていますが、そのひとつに補完性の原理も挙げられています。この原則をもって各地方教会の正当な自律性が保たれ、教会の法制における普遍教会の多様性の中の一致が図られることになりました[注8]

聖霊への信頼
人間らしいやり方で、心のかよった方法で、急がず、地道に、改革を進めて行きましょう。信頼関係が損なわれることのないように心がけたいと思います。信頼関係のないところに真の交わりは生まれません。それは、聖霊が息吹く人々への信頼であり、一致の霊である聖霊への信頼とも言えます。互いに聴き合う、相互傾聴と対話の姿勢を学ぶよう努めましょう...聖霊の働きに信頼を寄せ、聖霊に導かれることによって、わたしたちは人間的な思いや考えにとらわれることなく、神のみ旨、神の望みにそって改革を進めることができるのです[注9]

共同宣教
二千年期から第三の千年期への橋渡しの役割を果したヨハネ・パウロ二世教皇は、ご自身が主導なさったその準備をして次のように語っておられます。「第三千年期の初めにあたって… 教会が新たな福音宣教への情熱をもって歴史の海の沖へこぎ出すことを求めたのです」(回勅『教会にいのちを与える聖体』6項)。
わたしたちの横浜教区も全世界の教会とともに「交わりの教会をめざして」歩んでいます。そして共同(協働)宣教司牧という交わりの教会を実現するための制度をとおして(司牧書簡『横浜教区における改革の基本方針』8-10頁)、神の民とされた信徒、修道者、司祭がそれぞれに与えられている固有のカリスマを活かし合いながら福音宣教という教会の使命をともに果してゆこうとしています。わたしたちがめざそうとしているその方向性は単に横浜教区だけのものではありません。全世界の教会とともに横浜教区も歩んでいるのです。そうした意味でこの「交わりとしての教会をめざして」という方向性を理解していただき、それを実現するための共同宣教司牧であるということを今一度確認していただければと思います。これが、交わりとしての教会の位置づけであり、第一にご理解していただきたい点です[注10]

1.すべての信者の交わり実現する制度としての共同宣教司牧
聖職者中心主義時代の産物とも考えられる、ひとつの教会にひとりの司祭という従来型の小教区制度については、諸教会の交わりという観点からだけでなく、すべてのキリスト信者の交わりという次元からも見直されるべきです。現在いろいろな教区で「共同宣教司牧」が始められていますが、単なる司祭不足を解消するための一時的な緊急の手立のように考えられるべきものではありません。むしろ、すべてのキリスト信者の交わりという教会の本質を実現するための制度と考えるべきでしょう。ひとりの司祭ではなく、複数の司祭が、修道者、信徒とともに、それぞれの奉仕職(ministerium)をもって協働して教会の使命を果たしていくという意味での、いわゆるチーム・ミニストリー(team ministry)です。
共同宣教司牧に欠かすことのできない信徒の養成も、単に司祭召命の減少、あるいは司祭の高齢化を理由になされるべきものではなく、今述べたような信徒のもつキリスト者としての尊厳と働きのうえでの平等性に基づいて推進されなければなりません[注11]


すべてのキリスト信者、すなわち信徒・修道者・司祭は、洗礼と堅信の秘跡をとおして聖霊の賜物を受け、共に教会の使命(Missio)に参与しており、その使命を果たすために共同責任を担っています。その意味で、共同宣教司牧とは「信徒・修道者・司祭が共同責任をもって教会の使命を果たす体制」であるといえます。あるいは「それぞれの賜物を活かし合い、協力し合って働く協働体制」を指すともいえましょう。「共同責任」といっても「同等」の責任や役割を持ってというわけではありません。信徒・修道者・司祭にはそれぞれの責任が課せられているのであり、またそれぞれ異なった果たすべき役割があります。その違いが交わるとき教会は豊かになるのです[注12]

2.宣教司牧評議会と地区共同宣教司牧委員会
横浜教区では、「制度をとおして、神の民とされた信徒・修道者・それぞれに与えられている固有のカリスマを生かしあいながら福音宣教の使命をともに果たす」[注13]ために『宣教司牧評議会』と各地区に『地区共同宣教司牧委員会』を設置しています。

宣教司牧評議会
宣教司牧評議会の主な役割は、二つあります。第一は宣教司牧に関する教区長の諮問に対して答申すること、第二は「教区懇談会」を主催することです。教区懇談会は、教区長との対話、教区と各地区相互の情報交換、研修を行う場となります[注14]

地区共同宣教司牧委員会
地区共同宣教司牧委員会の目的は、地区レベルでの共同宣教司牧を推進することにあります[注15]

地区のビジョン
地区共同宣教司牧委員会に取り組んでいただきたい作業のひとつは、地区の将来を見据えたヴィジョンを描くことです。「交わりとしての教会をめざして」歩んでいる横浜教区にあって地区のめざすべき方向性や展望について、その具体的な内容を教区長に提示していただきたいと希望しています。たとえば、現在の地区の分け方を見直す必要があるのか、地区としての優先課題は何か、地区に拠点となるような教会を置いた方がよいのか、小教区間の協力体制を作るためにはどうすればよいのか、どのような養成が必要なのかなど、さまざまに想定されます。今後の教区全体の歩みのためにも、とても重要な作業です。この作業をとおして、将来の司祭の配置、また教会建設に際してもどういう建物がふさわしいかなどが、より明確に見えてくるでしょう[注16]
地区のビジョン
地区共同宣教司牧委員会に取り組んでいただきたい作業のひとつは、地区の将来を見据えたヴィジョンを描くことです。「交わりとしての教会をめざして」歩んでいる横浜教区にあって地区のめざすべき方向性や展望について、その具体的な内容を教区長に提示していただきたいと希望しています。たとえば、現在の地区の分け方を見直す必要があるのか、地区としての優先課題は何か、地区に拠点となるような教会を置いた方がよいのか、小教区間の協力体制を作るためにはどうすればよいのか、どのような養成が必要なのかなど、さまざまに想定されます。今後の教区全体の歩みのためにも、とても重要な作業です。この作業をとおして、将来の司祭の配置、また教会建設に際してもどういう建物がふさわしいかなどが、より明確に見えてくるでしょう[注16]

三部門
わたしたちの教会がキリストの教会としてあり続けるためには、三つの欠かせない要素があります。すなわち、祈りがささげられ、信仰が伝えられ、愛の証がなされていることです。ですから、小教区としてもまた地区としても、それぞれ自らの力によって、信仰を伝え、祈りをささげ、人々に愛をそそいでいけるような共同体に成長することが期待されているのです。そこで、これらの課題に応えることができるよう各地区に三つの部門を設けてください。すなわち、1祈る力を育てる部門、2信仰を伝える力を育てる部門、3神の愛を証しする力を育てる部門です。各部門をもって、自らの力で祈ることができる共同体づくり、自らの力で信仰を伝えることができる共同体づくり、自らの力で神の愛を証しすることができる共同体づくりに努めてください[注17]

[1]司牧書簡『交わりとしての教会をめざして』1-3頁。
[2]同上 4頁。
[3]同上 6-7頁。
[4]同上 8-9頁。
[5]同上 9-10頁。
[6]司牧書簡『横浜教区における改革の基本方針』1-2頁。
[7]同上4-5頁。
[8]同上5-6頁。
[9]同上10-11頁。
[10]『横浜教区宣教司牧評議会 第一回教区懇談会「教区長の時間」』1頁。
[11]司牧書簡『交わりとしての教会をめざして』13-14頁。
[12]司教教書『共同宣教司牧に向けた新たな宣教司牧評議会と地区共同宣教司牧委員会』 補遺 11頁。
[13]『横浜教区宣教司牧評議会 第一回教区懇談会「教区長の時間」』1頁。
[14]司教教書『共同宣教司牧に向けた新たな宣教司牧評議会と地区共同宣教司牧委員会』1-2頁。
[15]同上 3頁。
[16]同上 4頁。
[17]同上 5頁。

祈りを捧げる

自らの力で祈ることができる共同体づくり

横浜教区では、それぞれの地域にあわせた祈る力を守り、育てるために研修や共同集会など様々な形での取り組みを支援しています。各地で行われている、指導者の養成研修、信徒の養成、求道者への取り組みなどの情報を有効に活用して下さい。

祈る力を育てるとは何を指し示しているのでしょう
教区の基本方針である「交わりとしての教会」を実現するため3つの部門が設けられました。そのうちの一つ「祈る力を育てる」では、キリスト者として洗礼によって教会に一致した時から、祈りによって、時に神の身旨を問いかけ、時に自身の行動を振り返り、時に弱った心を励まされてきたのではないでしょうか。祈りを共にする事で共同体の進むべき道を見出す力を与えられる、祈りによって一致の喜びをかみしめる。祈りによって刷新される・・・。神の声に耳を傾けながら祈ることの大切さを感じて下さい。

信仰を伝える

自らの力で信仰を伝えることができる共同体づくり

福音宣教は、司祭、修道者、信徒がそれぞれの立場から、自律的に共同して取り組むべき課題です。神の言葉を宣べ伝えるために、最初に必要なのは聖書ではなく信頼かも知れません。最初に必要なのは愛かも知れません。また、宣べ伝えることに苦悩すること、共に悩むことで自分自身の信仰を育て、福音宣教の大きな力となるかも知れません。聖書研究会、教会学校など具体的な福音宣教の場だけでなく、日常のちょっとした一コマが福音宣教の場となることもあるかもしれません。横浜教区では、そうした力を育てるための研修やプログラムを各地の実情に合わせて支援しています。

信仰を伝える力を育てるとは何を指し示しているのでしょう
教区の基本方針である「交わりとしての教会」を実現するため3つの部門が設けられました。そのうちの一つ「信仰を伝える力を育てる」では、いわゆる福音宣教のひとつとして、みことばの息吹をどう伝えるのかという課題です。それは聖書の言葉をのべつ耐えることでしょうか、それはキリスト者としての生き様を見せることでしょうか、それは教会に人々を導くことでしょうか。どれも正しく、また一面的です。キリストのみことがをどのように証するかは、全ての信徒に課せられた課題であり、時の状況によって姿を変えることでしょう。
御国の実現を知る者として、キリストの愛を知る者として伝える事を祈りと日々の行いの中から探し求めなくてはなりません。

愛の証しをなす

自らの力で愛の証をなすことができる共同体づく

神の愛を証するために、横浜教区の様々な場所で、長年にわたり様々な活動が取り組まれています。教育機関、福祉施設それぞれ時代の要請に従って刷新され、そこに集う人々と共にキリストに生かされています。教育機関や医療機関など自律的な活動を営む団体であっても、信仰や支え合いの面で協力できることがあるかも知れません。また、比較的新しい社会福祉活動では運営自体が厳しく、財政的にも人的にも、多くの支援を必要としている所もあります。また、胎児のように今まさに必要としている人達と共に歩み始めようと自分たちの力でスタートを切ろうとしている活動もあります。横浜教区では、そうした活動の情報発信を支援しながら、様々な活動へいざなうための気づきとなる研修などの支援を行っています。

神の愛を証しする力を育てるとは何を指し示しているのでしょ
教区の基本方針である「交わりとしての教会」を実現するため3つの部門が設けられました。そのうちの一つ「信神の愛を証しする力を育てる」では、私たちが現代の社会で神のみことばをどのような形で示すことが表すことができるかを問われています。明治初期、再宣教の時には多くの修道会が、女子教育のための学校やハンセン病のための施設など様々な証を行いました。では、現代においてはそれは、建物でしょうか、行いでしょうか、それは信徒として問われる中で自らの気づきであり、神から求められた気づきによって形として現れてくるものです。そしてその証は、喜びを持って神への捧げ物として行われます。