公文書


司 牧 書 簡

カトリック校園で働くにあたって

 
横浜教区における カトリック校園の位置づけ
カトリック校園で働くすべての教職員の皆さんへ そしてまた教区の皆さんへ
横浜司教区教区長 司教 ラファエル梅村昌弘

目次
はじめに
横浜教区におけるカトリック校園の位置づけ
予備宣教とは
福音の価値観
カトリック校園の使命
カトリック校園への召命
神の愛
創造主である神の愛
いのちの尊厳・人間の尊厳
互いに愛し合うことの大切さ
ゆるす愛
共育
おわりに
 
付録
「おわり」と「はじまり」
春をむかえて
入園式-新任の先生方へ
「いのち」をあずかる
いのちの神秘





はじめに
 横浜教区が運営母体となっている学校法人聖トマ学園で は、改革の一環として「法人の日」を設け、毎年 7 月 3 日 の聖トマの祝日に開催しています。「法人の日」の目的は、 カトリックの教育理念を学び、全教職員の交流を図ること にあります。実際、キリスト教精神に則った教育とは何か を学び合い、この教育目標を協働して達成することができ るよう相互の信頼関係を深めるよう努めて来ました。
 5 周年を迎えた時には理事長として、また教区司教とし て「横浜教区におけるカトリック校園の位置づけ」につい て話し、10周年の時には「カトリック校園で働くにあたって」 と題して主にカトリック教育の目的について講演しました。 その内容は『カトリック横濱教区報』(70号)や教区のホー ムページに掲載されていますが、教区全体の宣教活動に関 わる重要な問題なのでカトリック校園で働く全教職員だけ でなく教区の皆さんにも幅広く知っていただきたいと思い 今回『司牧書簡』としてお届けすることにしました。

横浜教区におけるカトリック校園の位置づけ
 聖職者不在のカトリック施設が増えるなかで横浜教区では将来を見据えさまざまな取り組みを行なって来ました。そのひとつとしてカトリック校園におけるチャプレン制度 の導入を挙げることができます。しかし、実現のためには 司祭団の理解と協力が欠かせません。そこでまず司祭団と して教区におけるカトリックの幼稚園、保育園、学校など の位置づけを確認してもらうことにしました。「十年後の 横浜教区を展望しながら」をテーマに開催された2002年の 司祭大会をとおして司祭団からなされた『司教への提言』 では「十年後の幼稚園、保育園、学校などの施設について」 つぎのように述べられています。「カトリックの学校法人 や社会福祉法人の施設が果たす社会的な役割は大きい。教 会が運営するこれらの施設は社会に対して大きな責任を 持っている。また、教会の使命である福音宣教を担う場と して、また予備宣教の場として、これまでも大切な役割を 果たしてきたし、大きな影響力を持っているものと思われ る。今までと同様、これからも基本的にカトリックの施設 としての学校法人、社会福祉法人の施設を教会として大切 にしていきたい。」というように言わば司祭団の決意表明 ともなっています。横浜教区にあってカトリック校園は「教 会の使命である福音宣教を担う場」さらに「予備宣教の場」 として位置づけられています。「予備宣教」とは何を意味 しているのか、少々解説が必要かと思います。

予備宣教とは
 第二バチカン公会議後の1974年に「現代世界の福音宣教」 をテーマとして第三回世界代表司教会議(シノドス)が開 催され、その翌年に教皇パウロ六世の使徒的勧告『エヴァ ンジェリイ・ヌンチアンディ』(福音宣教)が発表されました。 使徒的勧告は、それまでの福音宣教をして「従来は、福音 宣教とはキリストを知らない人々に教え、説教し、カトリッ ク要理を説き、洗礼その他の秘跡を授けることと定義され ていました」(17項)と述べています。「しかし、福音宣教 の真の姿、複合性、その豊かさ、その動的な面を、部分的 あるいは断片的に定義することは、それを貧弱なもの、ゆ がんだものとする危険があります」(17項)と使徒的勧告は 指摘し、「教会にとって福音をのべ伝えるとは、『よい知ら せ』を人類のすべての階層にもたらし、『わたしは万物を 新しくする』(ヨハネの黙示録 21章 5 節;コリントの信徒への 手紙二 5 章17節)とあるように、固有の力で人類を内部か ら変化させ、新しくするという意味をもっています。 ・・・で すから、福音宣教の目的は明らかにこの内的変化でありま す。もし、これを一つの文章で表現するならば『教会が人々 を回心させようと努めるとき、教会は福音宣教をしている』 と言えるでしょう」(18項)と述べています。「神のみことばと救いの計画に背く人間の判断基準、価値観、関心の的、 思想傾向、インスピレーションの源、生活様式などに福音 の力によって影響を及ぼし、それらをいわば転倒させるこ と」(19項)が肝要です。このように使徒的勧告『エヴァンジェ リイ・ヌンチアンディ』は、教会の新しい宣教理解を示し、 従来の宣教は「福音化」としてとらえられるようになりま した。
 要は、福音宣教には狭義の意味と広義の意味とがあると いうことです。横浜教区の司祭団がカトリック学校をして「予備宣教の場」と位置づけたのは、広義の意味での福音 宣教の場として捉えているということです。ですから、狭 義の意味での福音宣教、すなわち「人々に教え、説教し、 カトリック要理を説き、洗礼その他の秘跡を授けること」 については教会に、あるいは司祭に直接お任せくださいと いうことが含み置きされているのではないでしょうか。

福音の価値観
 わたしカトリック校園が「予備宣教の場」としての役割を十全に果たすためには、何よりも教職員の皆さん自身が福音の価値観を学ぶよう努めなければなりません。カトリック学校教育委員会から出された『カトリック幼稚園の使命を果たしていくために』(2006年11月13日)の文書のなかで、カトリッ ク幼稚園で働く教職員に向けて「カトリック教育をめざす わたしたちには、キリストに学び、その価値観を教育の根 底におくことが求められます」と呼びかけられています。 カトリックの教育目標は、子どもたちをして「福音による 価値基準を学び、その価値基準に基づいて自ら行動できる ようにする」ことにあるからです。
 福音の価値観はイエス・キリストのことばと行いをもっ て、また自らの生き方そのものをもって示されています。最高の価値を何に置くのか。言うまでもなく、キリストは「愛」にその最高の価値を置いています。「イエス・キリス トをとおして示された神の愛を子どもたちに伝える」ことこそが、わたしたち一人ひとりに委ねられている使命なのです。

カトリック校園の使命
 カトリック学校やカトリック幼稚園の使命は、上述したようにイエス・キリストをとおして示された神の愛を子どもたちに伝えることです。教会と同じく「福音宣教」という使命です。福音宣教とはイエス・キリストのもたらした 福音を告げ知らせるということですが、「福音」とはまさに「神の愛」そのものに他なりません。
 具体的な目標は、子どもたちが神の愛に出会い、神の愛を知り、神の愛を体験し、自ら神の愛に生きる者となるようにということです。そのためには何よりも子どもたち自身が「自分たちは愛されているんだ」という実感を持てるように導かなければなりません。
 
カトリック校園の召命
 洗礼の有無にかかわらずカトリック校園で働くすべての者がこの使命を果たすよう神から召されているのです。わたしたちキリスト者はこれを「召命」と呼んでいます。神から選ばれた者としての誇りをもって委ねられた貴い使命をよろこびのうちに果たしていくことができれば幸いです。

神の愛
 神の愛は「無償の」「無条件の」という形容詞をもって 特徴づけることができるかと思います。世間でよく言われる「因果応報」とは違います。善いことをすれば報われ、悪いことをすれば罰せられる。神の愛は何らかの報いとして与えられるものではありません。ましてや手柄や功績によるものでもありません。見返りを求めることのない無償の愛がすべての人に無条件に注がれているのです。これこそが、イエスによってもたらされたわたしたちにとっての「よい知らせ」、すなわち「福音」です。

創造主である神の愛
 わたしたちキリスト者は神をして「天地万物の造り主」と信仰告白します。神による天地万物の創造の次第は旧約聖書の冒頭の書である『創世記』に記されています。神はすべてを創造し、造られたものをすべて「よしとされ」、「祝福された」とあります。就中、人間の創造については「我々 にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」という神のことばが記されています。神にかたどって創造された人間の「いのち」は神からの賜物であり、尊いもの、かけがえのないものだということです。神によって創造されたわたしたち 一人ひとりは、かけがえのない存在なのです。
 このようにわたしたちは創造の時から「ありのままでよしとされている」存在、「ありのままですばらしい」存在なのです。『知恵の書』ではつぎのように言われています。「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。いのちを愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。」(知恵の書 11章23-26節)。平たく言えば、人間は神の前で「まるごとよしとされている」のです。「ありのままで愛されている」のです。神にとって人間は愛さずにはいられない、かけがえのない、すばらしい、そして 何よりもいとおしい存在なのです。
 昨今、「自己肯定感」の持てない子どもが増えていると言われます。いつも「自己否定」に走ってしまう子どもは「どうせ、ぼくなんか」と思いがちです。そして最終的には「ぼくなんか居なくても」ということにもなりかねません。わたしたちはそのような子どもたちに神さまの愛のメッセージを届けたいと願っています。マザー・テレサが言っています。「誰からも愛されていないと思う心こそが、最大の貧しさなのです」。

いのちの尊厳・人間の尊厳
 創世記をとおして示されている神のメッセージのなかで特に大切なのは、「いのちの尊厳」と「人間の尊厳」ということです。わたしたちはこの二つの尊厳を尊重しなけれ ばなりません。
 被造物である人間は自らの手で自らのいのちを取り去ることはできません。また同時に、他人のいのちを奪ったり傷つけたりすることもできません。自分のいのちも他人のいのちもともに神によって生かされているからです。繰り返しになりますが、すべてのいのちは尊い、かけがえのないものだということです。
 また神に似て造られた存在として、神のように人間にはそれぞれ人格(ペルソナ)が備えられています。一般的には人間の尊厳と言いますが、「神の子どもとしての尊厳」と言い換えてもよいかも知れません。この尊厳は人の手によって決して奪われることがありません。
 人間として、またそのいのちにおいて、優劣があるわけではありません。からだに障害があるからといって、心に病があるからといって、いのちの尊厳に違いがあるわけではありません。子どもだからといって、老人だからといって、人間としての尊厳に遜色があるわけでもありません。特に教育に携わる者は、子どもを前にして人格を備えた一人の人間として向き合わなければなりません。「何もわからない子どもなんだから」といって子どもを侮辱し、貶めることがあってはならないということを常に心に留めるべきです。

互いに愛し合うことの大切さ
 神の愛は、無償のものであり、無条件にすべての人に等しく向けられています。使徒ヨハネは「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネの手紙一 4 章19節)と言っています。さらに「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」( 4 :10)とも言われています。「御父がどれほどわたしたちを愛しているか考えなさい」( 3 : 1 )という戒めの言葉もあります。
 人は愛される体験なしに他者を愛することはできません。カトリック校園に集うすべての子どもたちが日々の生活をとおして「神の愛」を体験し、自ら「神の愛」に生きる者となれるように、他者を愛し、他者を自分のことのように思いやることのできる大人へと成長していくことができるよう努めることが大切です。
 神ご自身がわたしたちをかけがえのない存在として認め、愛し、いつくしんでおられるように、わたしたち自身も互いをかけがえのない存在として認め、大切にする。これこそがいちばん価値ある、すばらしい生き方なのです。
 言葉をかえて言うならば、人間のいのちは決して自己完結的なものではないということです。自分のいのちは自分自身のためだけに与えられているものではありません。他者のいのちを生かすために、またそのために使われるときにこそ却って真のいのちを生きることになるのです。

ゆるす愛
 イエス・キリストをとおして示された神の愛は、特にイエス・キリストの十字架上の姿のうちに表されています。自分のすべてを人々のために与え尽すと同時に相手のすべてを受け入れ、包み込む愛が示されています。言い換えれば、与える愛とゆるす愛がそこにはあります。
 十字架上で大きく手を広げているイエスの姿を見つめるとき、イエスがかつてたとえ話で語られた放蕩息子の父親の姿、両手を広げ放蕩の限りを尽くして帰ってきたわが子をその懐に抱いて迎え入れた父親の姿を想い起こさせます (ルカによる福音書15章)。それはまさしくイエスが「アッバ」父と呼ばれた神ご自身の姿です。
 先ほど神の愛は、わたしたちの愛に先んじるものだということを指摘しました。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネの手紙一 4 章19節)。神のゆるしもまた同様です。わたしたちが神の前でゆるしを願う前に神はすでにわたしたちの過ちをゆるしてくださっています。聖書では放蕩息子のたとえ話に登場する父親の姿をとおして、そのことが端的に語られています。放蕩の限りを尽くして身を持ち崩した息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と告白しよう、そしてゆるしを願おうと心に決め、父親の住む故郷に向かいます。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と語られています。「まだ遠く離れていたのに」という言葉から父親がいかに我が子の帰りを待ちわびていたかが分かります。そして何よりも息子がゆるしを願う前に、父親は無条件に息子の過ちをゆるしていたのです。神の愛、特に神のゆるしにおける「神の先行性」もまたわたしたちにとって大きな福音です。

共育
 カトリック校園に委ねられた使命を十全に果していくためには保護者の皆さんの協力が欠かせません。保護者の方々にも同じ価値観を共有していただき、その同じ価値観をもって子どもたちを育てていただきたいのです。学校と家庭が共に子どもを育てるという「共育」なくして教育の実りを期待することはできません。

おわりに
 物質的な豊かさをいかに能率的に求めるかという経済効率を至上の価値としている企業の価値観が、そっくりそのまま社会全般にわたっているかに見える今日の日本社会にあって、人間の評価もとかく能率や効率の物差しに従ってなされがちです。その有用性がいつも問われる。日本の社会全体に深く浸透しているこのような価値観は教育の現場にも入り込んでいます。偏差値偏重に代表されるような価値観が学校教育の場にも持ち込まれ、子どもたちを歪めているのが現状です。そのような社会のなかにあっても、いや、そのような社会だからこそ福音に適ったカトリックの教育を続けていくことが求められているのではないでしょ
うか。最小の労力で最大の利潤をという経済の原則ではなく、ひとかけらの利潤や利益が得られなくとも最大の労力を惜しまないという姿勢で、これからも子どもたちにキリストが教えてくださった神の愛を伝えていくことができれば幸いと考えます。




2017年12月 8 日 無原罪の聖マリアの祭日に
横浜司教区 教区長 司教 ラファエル梅村昌弘
 
横浜みこころ幼稚園





付録 ※至光社『こどものせかい』別冊「にじのひろば」より

「おわり」と「はじまり」
 「はじまり」の対極は「おわり」。「もう終わりだ」、「もうお仕舞いだ」は、絶望の淵に立たされた人たちの言葉。東日本大震災を経験した人、震災の惨状を目の当たりにした人々もそう思ったに違いない。そういう人々に向けて希望の言葉が被災地のあちこちに残されていた。「出口のないトンネルはない」、「夜明けは必ずやって来る」。
 「希望の有無は生死を分ける」とは、生き残ったアウシュヴィッツの体験者が自ら語った言葉だ。今でも残されている強制収容所の鉄の門。掲げられているのは「働けば自由になれる」(ARBEIT MACHT FREI)という希望の言葉だ。ナチスが収容所のユダヤ人に無理矢理作らせたそうだが、決して解放されることがなかったことを考えると何とも皮肉な標語だ。しかし、生きるうえで希望が如何に大切かを端的に物語っている。
 4月は年度初め、万事が新たに始まる時だ。入学や入社など多くの人にとって希望に満ちた季節だ。多少の不安はあってもそれ以上に期待に胸を膨らませ、何かに向かって新たに歩み始める時だ。この時期、教会はキリストの復活を祝う。人々への愛に生きたイエスは受難と十字架上の死をとおして永遠のいのちを勝利した。死は「おわり」ではなく新たな門出、尽きることのないいのちの「はじまり」となったのである。イエスは自分を信じる者、自分と同じように人々への愛に生きる者に、復活のいのちを約束してくださった。この約束こそが、わたしたちの希望の根源だ。
20134月号


春をむかえて
 春は、あらゆるいのちが新たに芽生え、活動し始める時。そのようないのちの躍動感あふれる季節に教会はキリストの復活を祝う。すべてのいのちが息絶えてしまったかに見える冬を通り越し、春は一気にいのちがよみがえり、光輝く。そのような季節にキリストの復活を祝うのは眞にふさわしいことだ。
 キリストの十字架上の死を目の当たりにして今まで付き従ってきたすべての者が「事終われり」と思い定めてしまった。だがしかし、キリストは事絶えてはいなかった。死して後、三日目によみがえった。死を過ぎ越し、復活のいのちが輝き出たのである。それは冬から春に季節が一変するかのように起こった。「友のためにいのちを捨てる。これ以上に大きな愛はない。」いう自らの言葉どおりに生きたイエス。その無償の愛に父である神は復活をもって応えられた。
 「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(ガラテヤの信徒への手紙44節)宣教の始め、カナの婚宴の時、イエスは母マリアに向かって言われた。「わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネによる福音書24節)しかし、過越の祭りが近づくと「人の子が栄光を受ける時が来た。」(同1223節)と言って自ら十字架への道を歩み始められた。マリアの胎内に宿った神の御ひとり子イエスは、「時満ちて」生まれ、「時が来て」復活する。こうして時は永遠のいのちを孕むようになったのである。「時」はただむなしく過ぎ去って行くものではない。神によって計画された救いの「時」はまさに満ちるものなのだ。そして救いの「時」は必ずやって来る。そう信じて生きる者の人生は常に希望に満ちている。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」(ルカによる福音書145節)という言葉は、洗礼者ヨハネの母エリサベトがマリアに贈った賛辞だ。
20144月号


入園式-新任の先生方へ
 四月は年度初めとあって、入学式や入社式などさまざまな式典が各地で催されます。『こどものせかい』の読者の皆さんに関係するのは入園式でしょうか。式には新入園児のほか新任の先生方も大勢いらっしゃるかと思います。私は理事長先生とも呼ばれる立場なので、学校法人を代表して新任の先生方には辞令を手渡し、つぎのことを伝えています。
 カトリック幼稚園の使命はイエス・キリストをとおして示された神さまの愛を子どもたちに伝えることです。ですから、カトリック幼稚園で働くすべての者は等しくこの使命を果たすべく神から召されているのです。わたしたちキリスト者はこれを「召命」と呼んでいます。キリスト者でない先生方もまた同じ召命を受け、同じ使命に生きるようにと神から召されているわたしたちの大切なパートナーなのです。
 神さまの愛は「無償」のものであり「無条件」にすべての人に向けられています。使徒ヨハネは「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙一419節)と言っています。人は愛される体験なしに他者を愛することはできません。カトリック幼稚園に集うすべての子どもたちが日々の生活をとおして「神の愛」を体験し、自ら「神の愛」に生きる者となれるように、他者を愛し、他者を自分のことのように思いやることのできる大人へと成長していくことができるよう、教員として努力を重ねて行かねばなりません。そのためには十字架上で自らをいけにえとして献げられたキリストに倣って、わたしたち自身も犠牲を惜しまぬ姿勢で働く覚悟が必要です。最後の晩餐の席でイエスは自らの死を前にして弟子たちに遺言のように言い残されました。「互いに愛し合いなさい。」、「友のためにいのちを捨てる。これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書151213節)と。
20154月号


「いのち」をあずかる
 幼稚園はいずれも幼い子どもたちの「いのち」をおあずかりしています。ご両親からそして最終的には神さまからということです。旧約聖書の冒頭にある創世記において、人は神の姿にかたどり、神に似せて創られた存在として語られています。ですから人間の「いのち」は神からの賜物であり、尊いもの、かけがえのないものなのです。そして人は神のように人格を備えています。人はその存在の初めから「いのちの尊厳」と「人間としての尊厳」が神から与えられているということです。私たちはこの二つの尊厳を常に念頭に置きながら子どもたちの教育に携わって行かなければなりません。
 今「いのち」と表記したのは、単なる肉体的な、物質的な「命」だけではなく、人格を備えた心を宿す存在でもあるということを表すために敢えて平仮名書きにし「いのち」としました。従って、教育の対象は心身ともにということです。食育をめぐっても子どもたちの身体的な成長だけでなく心を育てることもそれ以上に大切に考えて行かなければなりません。そのためには幼い子どもと言っても人格を備えたひとりの人間として向き合うことが求められます。
 創造主である神ご自身、私たち一人ひとりをかけがえのない存在として認め、愛し、慈しんでくださっています。ですから、私たち自身もまた互いをかけがえのない存在として認め、大切にする、これこそいちばん価値ある、すばらしい生き方だということを子どもたちに伝えて行きたいと思います。自分のいのちは自分自身のためだけに与えられているのではありません。却って、他者のいのちを生かすために、また、そのために使われる時にこそ真のいのちを生きることになるのです。そして最後に被造物である人間は自らの手で自らのいのちを取り去ることはできないということについても、しっかりと伝えて行きたいと思います。
20164月号


いのちの神秘
 横浜教区内には依存症で悩み苦しむ人たちのための回復施設が数多くあります。アルコール依存症者施設「マック」や薬物依存症者施設「ダルク」あるいはギャンブル依存症者回復施設「ワンデーポート」などがあります。
 社会から病気だと認知されるには、まだまだ遠い道のりです。世間の偏見にもめげず、当事者の皆さんは前向きに生きようと懸命に日々努力しています。各施設の機関紙に掲載された体験談を注意深く読んでいると、頻繁に使われているある共通した言葉が目に留まります。実はそれが回復へのキーワードなのです。
 「マックにつながる」、「ダルクにつながる」と言われているのですが、一般には「参加する」「通所する」「入所する」と言うべきところです。この「つながり」がなければ決して回復の道を歩むことはできません。「仲間」という言葉にも目が留まります。「仲間がいるからこそ回復への道を歩むことができる」というのですが、しかし単に「仲間に助けられて」という意味だけではありません。「自分の回復の歩みもまた仲間たちを支える力になっているのだ」という思いが、自分のなかで更なる回復への力になっているというのです。神さまが与えてくださったわたしたちのいのちの神秘を垣間見るような気がしました。
 人間のいのちは決して自己完結的なものではありません。自分のいのちは自分自身のためだけに与えられているものではない。他者のいのちを生かすために、またそのために使われるときにこそ真のいのちを生きることになるのです。
20174月号



司牧書簡
カトリック校園で働くにあたって
横浜教区における
カトリック校園の位置づけ

2017年12月8日
カトリック横浜司教区
〒231-8652 横浜市中区山手町44