司牧書簡
交わりとしての教会をめざして
横浜司教区教区長 司教ラファエル梅村昌弘
目次
1.皆が一つになって
2.幾つかの次元
3.諸教会の交わり
4.聖職位階にある人々の交わり
5.すべての信者の交わり
6.新しい千年期に向けて
司牧書簡
横浜教区の信徒、修道者、司祭の皆様へ
交わりとしての教会をめざして
1.皆が一つとなって
司教叙階にあたってコムニオ・コムニオーヌム(communio communionum)というモットーを掲げました。叙階後、横浜教区のこれからのヴィジョンをどのように考えているかと幾度となく尋ねられました。司教としてこれからどのように神の民の一部とされる教区を導いていくのかという問いは、司教職を引き受けるその瞬間から自らに問われていることです。強いてこの問いに応えるとするならば、それは司教のモットーに表されていると言えるでしょう。
そこで、教区のすべての方々に司教のモットーをご理解いただき、教会の創立者である主キリストご自身がお望みになる教会共同体づくりのためにご協力を仰ぎたいと思います。さて、ラテン語のコムニオは一般に交わりあるいは一致と訳されますが、実際には一言では言い尽くせない深い意味を含むことばです。コムニオ・コムニオーヌムをそのまま日本語に置き換えるならば「交わりのなかの交わり」あるいは「一致のなかの一致」ということになるでしょうか。管区大司教として司教叙階式を司式してくださった白柳枢機卿は、司教のモットーをうけて説教のなかで、たくさんの交わりがさらに一つに交わることを意味し、三位一体の神に由来する教会の本質を表すものだと説き明かしてくださいました。
第二バチカン公会議は教会をして「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具である」1と定義しました。教会は、父と子と聖霊の交わり、三位の神の交わりへと人々を招く使命を担っているのです。司教の紋章に描かれているように、ヘブライ語でアッバ(父)の文字が入るミトラ(司教帽)で表された御父のいつくしみにつつまれて2、鳩で表された聖霊の息吹を受け、キリストの十字架をマストとする船で表された教会は、旅する神の民として世の海原を三位の神の交わりへと巡礼の旅を続けます。マストとなっている十字架の横木は、縦木よりも長めに見えます。キリストは救い主として十字架上にあって大きく手を広げてすべての人を御父へと導かれました3。その救いの使命を教会は受け継いでいるのです。
キリストの救いの使命を果たすため、教会は自らが交わりと一致のしるしと道具となるよう努めなければなりません。この実現のために一致の秘跡と呼ばれる聖体は特に大切です。教会の交わりと一致の源泉は実にコムニオと呼ばれる聖体にあるからです。紋章のなかでは麦とぶどうをもって表されています。聖体の祭儀は「教会活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉」4だと言われます。聖体によって、キリストとの一致、またキリスト者相互の一致がはかられ、教会は『キリストのからだとしての教会』として、その交わりを実現しています5。従来はどちらかというとキリストとの一致ばかりが言われていたように思います。キリスト者相互の一致という面がもっと強調されてしかるべきではないでしょうか。キリスト論的側面ばかりでなく教会論的側面も見逃してはならな
いということです。
2.幾つかの次元
教会論的側面からいうならば、教会にはさまざまな次元において一致と交わりがみられます。ヨハネ・パウロ二世教皇は新しい教会法典を公布するにあたり、つぎのように述べています。「教会は共同体として交わりであり、この交わりが部分教会と普遍教会との間、司教の団体性と教皇の首位性との間に存在すべきこと、同様に神の民のすべてのメンバーがそれぞれにふさわしい形でキリストの祭司的、預言的、王的な務めにあずかる者であり、信者すべて、なかでも信徒も義務と権利をもつ者であるということです。また、教会がエキュメニズムのために払っている努力も、そのような要素のひとつになっています」6。ここでは、諸教会の交わり、聖職位階にある人々の交わり、すべての信者の交わりという三つの次元の交わりが指摘されています7。
これら三つの次元の交わりは、実に司教叙階式のなかで明確に表されています。被選司教は、ローマ教皇の代理である教皇大使臨席の下、教皇の任命書が読み上げられた後に、司教団のなかで、またその按手によって司教として叙階されます。叙階される司教の下で働く司祭団も出席しています。ここに位階的な交わりが表されています。司教はまた神の民の一部とされる部分教会である各地方の教会を代表しています。このことによって諸教会の交わりが表象されています。横浜教区の場合には、日本聖公会横浜教区の梶原主教とプロテスタントの各教団を代表する牧師方も参列してくださいました。エキュメニカルな意味での諸教会の交わりが実現していました。司教叙階式には司祭団だけでなく、信者を代表する人々も、また各修道会の代表者も出席します。すべての信者の交わりがそこにはあります。このように典礼は教会の信ずべき信仰内容を具体的に目に見える形で表しています8。
3.諸教会の交わり
諸教会の交わりには、小教区と他の小教区、小教区と教区、部分教会と呼ばれる教区と他の教区、日本の教会とアジアの教会、そして全世界に広がる教会との間に存在する交わりが考えられます。エキュメニズム、教会一致の観点からは、正教会、聖公会9といったカトリック以外の諸教会、さらにプロテスタントの諸教団との間の一致ということになります。教会はキリストの教会としてひとつになることが求められています。
諸教会の交わりということに関して、横浜教区にあっては特に二つのことに関心を寄せたいと思っています。ひとつは、従来、顕著であった小教区中心主義とでもいうべき姿勢の克服です。何事をするにも小教区単位で考えられ、また実際に小教区単位ですべて行われてきました。教会は決して自己充足的な共同体ではありません。自己完結してはならないのです。横浜教区では早い時期からこのような反省に基づく刷新がさまざまなかたちで試みられてきまた。制度面においても教区設立50周年(1987年)を機会に16地区が設けられ、地区の単位で小教区間の協力が積極的に推し進められてきました。地区福音宣教委員会や地区を代表する評議員をもって構成される宣教司牧評議会の活動も評価されるべきものです。今後この地区制がさらにあらゆる教会活動に関して活かされ、なお一層充実していくことを期待しています。自己実現のための場ではなく他者のための存在として教会が理解されるようになり、今では多くの小教区で地域社会の人々との交わりも大切にされています。さらなる発展を祈っています。
さて、もうひとつの関心事は、日本の教会の多国籍化という点です。新しい世紀を迎えようとしている現在、この現象はますます進むことでしょう。人種や民族、言葉や生活習慣の違いを乗り越えて、互いの交わりと一致を深め、共に手を携えて教会の使命を果たして行くことが大切です。そのためには、また、外国籍の人々の出身教会との交わりも深めて行かねばならないでしょう。民族的な紛争が後を絶たない現代世界にあって、諸教会の交わりと一致は大きな意味をもつものと確信しています。また、民族問題だけでなく、諸教会の交わりのなかで、さらに南北問題をはじめ現代社会のもつ構造的な罪や悪、不正義などの解決に向けても努力を重ねてゆきたいと思います。
4.聖職位階にある人々の交わり
教皇と司教団10、司教と司祭団の間にも、同じ叙階の秘跡に結ばれた奉仕者としての交わりと一致が存在します。司教と司祭との一致について第二バチカン公会議はつぎのように述べます。「司祭は司教職位の賢明な協力者、その助手、その道具であって、神の民に仕えるために召され、自分たちの司教とともに、種々の職務に携わる一つの司祭団を構成する」11。「すべての司祭は、司教とともに、キリストの唯一同一の司祭職と役務とに参与する。したがって、この聖別と使命の一致自体が、司教団と司祭たちとの位階的交わりを要求する」12。さまざまな職務に携わりながらも、叙階の秘跡によって唯一のキリストの司祭職にあずかっている司祭団は、人々へのよりよい奉仕のために13、互いに秘跡的兄弟愛によって深く結ばれ、協力し合って働いてゆかねばなりません14。そこには教区司祭や修道会、宣教会の司祭といった区別はありません。
公会議は司教職そのものが「各々の部分教会における一致の見える根拠であり基礎である」15と述べます。聖キプリアヌスは「司教は教会の中にあり、教会は司教の中にある」とさえ言っています。司教職は教会の見える一致のしるしなのです16。
5.すべての信者の交わり
洗礼と堅信の秘跡を受け、キリストの救いの使命に参与しているすべてのキリスト信者(信徒、修道者、司祭)の間にも交わりが存在します。洗礼と堅信の秘跡によって、すべてのキリスト信者はキリストの祭司職、預言職、王職にあずかる者となり、教会の使命を互いに協働して果たします。ラテン語のコムニオは「共に、一緒に」を表すコン(con)と「任務、責任、義務」を意味するムヌス(munus)という二つの単語が合成されてできたことばだと解釈する人もいます。この意味において教会はそれぞれのメンバーが互いにそれぞれの任務、責任、義務を分かち合って、ひとつの使命を果たす共同体(communitas)なのです。
「聖霊は、洗礼を受けたすべての者に位階的な違いやカリスマ17のたまものを与え、それぞれ別な方法で、積極的に共同責任を担う者となるよう招いています」18。聖霊は教会を「聖職位階のたまものと霊の種々のたまものとをもって導く」19と言われています。叙階され聖職位階に属する人々の権威は、聖霊から生まれ、カリスマによって支えられています。しかし、教会のカリスマは、叙階のカリスマだけをもってすべてとされるものではありません。そのことについてパウロは「賜物(charisma)にはいろいろありますが、それを与えるのは同じ霊です。務め(diakonia)にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です」(1コリント12:4-5)と語っています。カリスマの多様性は、奉仕の多様性に反映されており、それらが一つの固有な目的、すなわち教会の建設という一つの目的に向けられているのです20。教会は、いろいろな賜物をもつ多くの人々がそれぞれ互いに自分の賜物を分かち合うこと(communio)によって建てられています。その意味で、教会は『交わりの教会』と呼ばれます。使徒書においても「あなたがたは、それぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(1ペトロ4:10)と勧められています。教会のさまざまな次元において聖霊における交わりが大切にされ、また実現されて行かねばなりません。司牧者は、信徒のカリスマに対して、聖霊の働きに対して、深い尊敬と注意を払いながら、それらを識別して行かねばなりません。司牧者に期待されているのは「霊を消すことではなく、すべてを試し、よいものを保つこと」21です。
ところで、「神にささげられた貞潔、清貧、従順の福音的勧告」も「教会が自分の主から受け、また主の恩恵によって絶えず守ってきた神のたまもの」22です。この福音的勧告を生きる修道者は「教会の生活のなかにおいて、特別なたまものを享受し、おのおの自分の方法をもって、救いをもたらす教会の使命に奉仕」23します。教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的勧告『奉献生活』も「奉献された人々は、その豊かなカリスマをとおして、『神との親密な交わりと全人類の一致』の秘跡としての教会の本質をいっそう深く示すことに、特別な仕方で貢献します」24と述べています。実に奉献生活のカリスマは「ある一つの会に限られた恵みではなく、教会全体に役立つ恵み」25なのです。「奉献された人々は、普遍教会の使命に奉仕する交わりのパン種であるように招かれています」26。しかし、奉献された人々は、普遍教会ばかりでなく、さらに神の民の一部である部分教会にあっても、「部分教会との協力を惜しまず、自らのカリスマを保ちながら、司教との完全な交わりのうちに、福音宣教、信仰教育、小教区生活などの分野で働きます」27。このようにして「神の民全体の有機的な交わり、すなわちカリスマ的であり、同時に位階的な構造を持つ交わりを築くために働く」28ことになるのです。
聖職者中心主義時代の産物とも考えられる、ひとつの教会にひとりの司祭という従来型の小教区制度については、諸教会の交わりという観点からだけでなく、すべてのキリスト信者の交わりという次元からも見直されるべきです。現在いろいろな教区で「共同宣教司牧」が始められていますが、単なる司祭不足を解消するための一時的な緊急の手立のように考えられるべきものではありません。むしろ、すべてのキリスト信者の交わりという教会の本質を実現するための制度と考えるべきでしょう。ひとりの司祭ではなく、複数の司祭が、修道者、信徒とともに、それぞれの奉仕職(ministerium)をもって協働して教会の使命を果たしていくという意味での、いわゆるチーム・ミニストリー(team ministry)です。
共同宣教司牧に欠かすことのできない信徒の養成も、単に司祭召命の減少、あるいは司祭の高齢化を理由になされるべきものではなく、今述べたような信徒のもつキリスト者としての尊厳と働きのうえでの平等性に基づいて推進されなければなりません。終身助祭制度についても、信徒の養成を阻害したり、あるいは信徒の間に新たな聖職者主義が生まれないよう、同様な観点から慎重に検討すべきものと考えます。
それぞれ固有のカリスマに基づいて活動するさまざまな団体あるいは委員会が教区にはあります。横浜教区ではそれらの横のつながりを大切にし協働していく方法も宣教司牧評議会や司祭評議会などをとおして新たに模索する必要があるように見受けられます。
6.新しい千年期に向けて
ヨハネ・パウロ二世教皇は、大聖年公布の大勅書『受肉の秘義』のなかで「人間社会はキリストのうちに新たにされ、神の家族に変わらなければならないのです。この課題に応えるために、教会は一致を守り、交わりのいのちのうちに育って行かねばなりません」(2項)と呼びかけておられます。教会の交わりと一致は、神の家族としての兄弟姉妹の交わりである人類の一致を目指さなければなりません。
人は自分の社会を守るためにさまざまな壁を作ってしまいます。たとえば、人種や民族の壁、言葉の壁、宗教の壁、身分や貧富の壁などです。そういう人々にとって、隣人は、壁の中にいる人々だけなのです。イエスのたとえ話の中でも特に有名な「善いサマリア人」のたとえ話を思い起こしてみましょう。律法で『汝の隣人を愛せよ』と言われていましたが、当時のイスラエルの人々にとっての隣人とはユダヤ人だけです。たとえ話の中で傷ついたユダヤ人に対して隣人となったのはサマリア人でした。イエスは人種や民族の壁を取り除かれようとなさったのです。そのイエスは、神を父と呼び、すべての人が父である神の子どもであることを明らかにされました。わたしたちは皆、兄弟姉妹なのです。
現代社会における教会の使命を明らかにした第二バチカン公会議は、「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものはひとつもない」29と宣言しました。わたしたちが互いに兄弟姉妹として、自らあらゆる壁を取り除いて、キリストの心を心として「人々の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に貧しい人々のそれ」を自分のものとして感じ、人類家族に奉仕して行くことができるよう心から願い、祈ります。
皆様方のそれぞれの働きの上に神さまの祝福が豊かにありますように
2000年12月25日主の降誕の祭日に
横浜司教区教区長司教ラファエル梅村昌弘
1『教会憲章』1項
2 父である神のいつくしみをもって人々を導く司教の使命も表しています。
3「イエスが『アッバ』父と呼ばれた神は、まさに放蕩息子の父親のような方なのです。神はどんな人をも決して見捨てず、無条件で愛し、ゆるし、受け入れてくださる。大きく手を広げ放蕩息子を迎え入れる父親と十字架上で大きく手を広げて人々の罪のゆるしを願うキリストの姿とを重ね合わすことができます。私たちもその姿を世に示してゆきましょう。」拙文「大聖年を迎えるにあたって」『横浜教区報』42号
4『典礼憲章』10項
5 ヨハネ・パウロ二世教皇の使徒的勧告『信徒の召命と使命』は、パウロ六世のことばをかりて、つぎのように言っています。「教会は、交わりです。ところで、交わりとは何を意味しているのでしょうか。カトリック要理が『聖徒の交わり』(コムニオ・サンクトルム)について述べている箇所を参照しましょう。教会とは、聖徒の交わりを意味しています。この交わりは、二つの生きたかかわりをさしています。すなわち、キリスト者がキリストのいのちと結ばれていることと、この世とつぎの世において、信者が一体となって愛の交流のうちにあるということです。それは、キリストによるキリストとの一致、教会のなかでのキリスト者同士の一致です。」(19項)
6『カトリック新教会法典』に収められている使徒憲章『サクレ・ディシプリーネ・レジェス』(pp.iv‐ix)。
7ラテン語では、諸教会の交わりをcommunio Ecclesiarum、聖職位階あるいは役務者の交わりをcommunio hierarchica seu ministeriorum、信者の交わりをcommunio fidelium と言います。
8『カトリック教会のカテキズム』n.1124で言われているようにAquitaniaのProsper(us)(A.D.390-455)の表現を借りれば<lex orandi, lexcredendi>、<legem credendi lex statuat supplicandi>(祈る法は信ずべき法)ということになります。典礼は信仰の遺産である聖なる生きた伝承の基本的要素のひとつなのです。
9 第二バチカン公会議は英国教会に対して特別な位置づけをしています(『エキュメニズム教令』13項c)。
10「キリストは、聖ペトロを他の使徒たちの上に立て、そのペトロ自身のうちに、信仰と交流の一致の永久にして見える源泉および基礎を制定した。」(『教会憲章』18項)「主はこの使徒たちを団体すなわち永続的な集団の形に制定し、かれらの中からペトロを選んでその頭とした。」(19項)「主の制定によって、聖ペトロと他の使徒たちとが一つの使徒団体を構成しているのと同じように、ペトロの後継者であるローマ教皇と使徒たちの後継者である司教たちとは、互いに結ばれている。」(22項)「秘跡的聖別の力によって、また司教団体の頭ならびに構成員との位階的交わりによって、人は司教団の一員となる。」(22項)
11『教会憲章』28項
12『司祭の役務と生活に関する教令』7項
13『教会憲章』18項
14『司祭の役務と生活に関する教令』8項
15「それらの部分教会は全教会の像に似て形造られ、それらの中に、またそれらから、唯一単一のカトリック教会が存在する。したがって、各司教は自分の教会を代表し、すべての司教は教皇とともに平和と愛と一致のきずなの中に結ばれて、全教会を代表する。」(『教会憲章』23項)
16「教会は『一致の秘跡』、すなわち、司教のもとに一つに統合された聖なる民である。」(『典礼憲章』26項)
17最近では日本の一般社会でも個人に備わった特別な才能や能力を表す言葉としてよく使われるようになりましたが、本来は「聖霊の賜物」という意味のギリシャ語です。聖書のなかでのカリスマは、一般的には神の無償の賜物(ロマ1:11;5:15;11:29)を、特別にはキリストのからだである教会を築くために与えられる聖霊の賜物(ロマ12:6/1コリ1:7;7:7;12:4.9.28.30.31/1テモ4:14/2テモ1:6/1ペト4:10)を意味します。後者の意味ではさらに、教会におけるある一定の奉仕に向けて個々人に与えられる神の召命(1コリ7:7;17)、また同時にその奉仕を果たすために与えられる能力であると言うこともできます。
18教皇ヨハネ・パウロ二世、使徒的勧告『信徒の召命と使命』21項
19『教会憲章』4項
20『教会の宣教活動に関する教令』28項
21『教会憲章』12項
22『教会憲章』43項
23同上
24教皇ヨハネ・パウロ二世、使徒的勧告『奉献生活』46項
25『奉献生活』49項
26『奉献生活』47項
27『奉献生活』49項
28同上
29『現代世界憲章』1項
司牧書簡
交わりとしての教会をめざして
2000年12月25日発行
2003年12月25日第2刷
カトリック横浜司教区
〒231‐8652 横浜市中区山手町44