横浜教区宣教司牧評議会主催
第一回教区懇談会「教区長の時間」
横浜司教区教区長司教ラファエル梅村昌弘
目次
はじめに
1.「交わりとしての教会」の位置づけ
2.教会における交わりについて
三つの次元
諸教会の交わり
すべてのキリスト信者の交わりを実現する制度としての共同宣教司牧
キリスト信者=神の民と三つの使命について
3.地区共同宣教司牧委員会の三部門の設置をめぐって
自らの力
三部門
優先課題
教区の委員会との連携
教区内の教育施設
福祉関係の施設
組織・構成メンバー、小教区とのかかわり
はじめに
横浜教区宣教司牧評議会主催の第一回目の教区懇談会が2009年5月23日から24日にかけて開催されました。懇談会に先立ち、地区共同宣教司牧委員会に司教教書『共同宣教司牧に向けた新たな宣教司牧評議会と地区共同宣教司牧委員会』に関するアンケートを取りました。その中に教区長にお尋ねになりたいことという項目がありましたので、教区懇談会2日目の「教区長の時間」に皆さんからの質問をふまえながら話を進めさせていただきました。終了後、参加者から内容を文書にしてほしいとの声が寄せられましたので、公文書等その他の引用箇所も書き添えてこの冊子を作成しました。地区共同宣教司牧委員会その他において信徒・修道者・司祭の皆さんで読み合わせをしていただければ幸いです。
2009年9月
教区長ラファエル梅村昌弘
1.「交わりとしての教会」の位置づけ
昨年の2008年10月には「神のみことば」をテーマとした第12回通常シノドス(世界代表司教会議)が開催されました。これまでのシノドスはすべて大聖年の準備に充てられて来ました。第7回から第10回までの通常シノドスでは、教会の構成員である信徒、司祭、修道者、司教、各々の固有の召命と使命についての考察がなされています。シノドス後その都度、使徒的勧告というかたちで教皇文書が発表され、『信徒の召命と使命』、『現代の司祭養成』、『奉献生活』、『神の民の牧者』の表題で邦訳されています。信徒について取り扱われた第7回通常シノドスの2年前、1985年には第二バチカン公会議閉会20周年を記念して臨時シノドスが開催され、「第二バチカン公会議の再確認」が行われました。その際「交わりとしての教会論は、公会議の諸文書にみられる中心的かつ基本的な概念です」という重要な指摘がなされています。使徒的勧告『信徒の召命と使命』でもそのことが確認されています。「第二バチカン公会議で、教会は自らの中心的理念を明確にし、1985年の臨時シノドスはそれを次のように思い起こしています。『交わりとしての教会論は、
公会議の諸文書にみられる中心的かつ基本的な概念です。交わり(コイノニア)は、聖書にその源を発し、初代教会と、今日に至るまで東方教会において、大いに重んじられてきました。第二バチカン公会議は交わりとしての教会がいっそう理解され、この考えが生活の中で具体化されるようにしました』」(19項)。
この指摘を受けてその後のシノドスで論議された信徒、司祭、修道者、司教、それぞれの召命と使命は、すべて「交わりとしての教会」という教会理解をもって、またその枠組みの中で論じられています。「交わりとしての教会」の交わりの源泉は聖体にあります。そのことはわたくしの司牧書簡『交わりとしての教会をめざして』の中でも述べられています。「キリストの救いの使命を果たすため、教会は自らが交わりと一致のしるしと道具となるよう努めなければなりません。この実現のために一致の秘跡と呼ばれる聖体は特に大切です。教会の交わりと一致の源泉は実にコムニオと呼ばれる聖体にあるからです。紋章の中では麦とぶどうをもって表されています。聖体の祭儀は『教会活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉』だと言われます。聖体によって、キリストとの一致、またキリスト者相互の一致がはかられ、教会は『キリストのからだとしての教会』として、その交わりを実現しています。従来はどちらかというとキリストとの一致ばかりが言われていたように思います。キリスト者相互の一致という面がもっと強調されてしかるべきではないでしょうか」(2~3頁)。これまではどちらかというと個人主義的な信仰生活が営まれて来たような嫌いがあるわけで、もっと横のつながりを意識し大切にしながら、すなわち、もっと共同体としての信仰を培っていただきたいということです。
第11回のシノドスは聖体をテーマとして選びました。聖体と大聖年との関係については、前教皇ご自身が『紀元2000年の到来』の中で端的に語っておられます。「紀元2000年は、まことに聖体を中心としたものになるでしょう。二千年前、マリアの胎内で人となった救い主は、聖体の秘跡において、神のいのちの源として、人類に自らのいのちをささげ続けています」(55項)。感謝の祭儀において、わたしたちは「聖体」だけでなくまた同時に「神のみことば」によって養われています。ここから第12回のシノドスのテーマ「教会の生活と宣教における神のことば」の由来も理解できるのではないかと思います。教会も聖母マリアのように「神のみことば」を宿し、生み育て、この世に送り出す務めを負うています。そのような使命を教会は担っているということです。
二千年期から第三の千年期への橋渡しの役割を果したヨハネ・パウロ二世教皇は、ご自身が主導なさったその準備をして次のように語っておられます。「第三千年期の初めにあたって… 教会が新たな福音宣教への情熱をもって歴史の海の沖へこぎ出すことを求めたのです」(回勅『教会にいのちを与える聖体』6項)。
わたしたちの横浜教区も全世界の教会とともに「交わりの教会をめざして」歩んでいます。そして共同(協働)宣教司牧という交わりの教会を実現するための制度をとおして(司牧書簡『横浜教区における改革の基本方針』8~10頁)、神の民とされた信徒、修道者、司祭がそれぞれに与えられている固有のカリスマを活かし合いながら福音宣教という教会の使命をともに果してゆこうとしています。わたしたちがめざそうとしているその方向性は単に横浜教区だけのものではありません。全世界の教会とともに横浜教区も歩んでいるのです。そうした意味でこの「交わりとしての教会をめざして」という方向性を理解していただき、それを実現するための共同宣教司牧であるということを今一度確認していただければと思います。これが、交わりとしての教会の位置づけであり、第一にご理解していただきたい点です。
2.教会における交わりについて
三つの次元
司牧書簡『交わりとしての教会をめざして』の中で「幾つの次元」という見出しをもって教会の三つの交わりの次元について言及されています。「教会にはさまざまな側面において一致と交わりがみられます。ヨハネ・パウロ二世教皇は新しい教会法典を公布するにあたり、つぎのように述べています。『教会は共同体としての交わりであり、この交わりが部分教会(○○教区)と普遍教会(全世界にひろがる教会)との間、司教の団体性と教皇の首位性との間に存在すべきこと、同様に神の民のすべてのメンバーがそれぞれにふさわしい形でキリストの祭司的、預言的、王的な務めにあずかる者であり、信者すべて、なかでも信徒も義務と権利をもつ者であるということです。また、教会がエキュメニズムのために払っている努力も、そのような要素のひとつになっています』」。
ここで、ヨハネ・パウロ二世教皇は教会における交わりを三つ指摘します。すなわち、諸教会の交わり、聖職位階にある人々の交わり、すべての信者の交わりという三つの次元の交わりです。この三つの交わりを実現するために共同宣教司牧という制度が考えられるわけですが、その共同宣教司牧の制度をもってどのようなことが克服されるのかと言うならば、特に諸教会の交わりという次元から言うならば、小教区中心主義と呼べるような姿勢が克服できるのではないかということです。
諸教会の交わり
「諸教会の交わりというということに関して、横浜教区にあっては特に二つのことに関心を寄せたいと思っています。ひとつは、従来、顕著であった小教区中心主義とでもいうべき姿勢の克服です何事をするにも小教区単位で考えられ、また実際に小教区単位ですべて行われてきました。教会は決して自己充足的な共同体ではありません。自己完結してはならないのです。横浜教区では早い時期からこのような反省に基づく刷新がさまざまな形で試みられてきました。制度面においても教区設立50周年を機会に16地区が設けられ、地区の単位で小教区間の協力が積極的に推し進められてきました。地区福音宣教委員会や地区を代表する評議員をもって構成される宣教司牧評議会の活動も評価されるべきものです。今後この地区制がさらにあらゆる教会活動に関して活かされ、なお一層充実していくことを期待しています。自己実現のための場ではなく他者のための存在として教会が理解されるようになり、今では多くの小教区で地域社会の人々との交わりも大切にされています。さらなる発展を祈っています」(『交わりとしての教会をめざして』6頁)。
すべてのキリスト信者の交わりを実現する制度としての共同宣教司牧
すべてのキリスト信者の交わりについては、『交わりとしての教会をめざして』の13頁で述べています。「聖職者中心主義時代の産物とも考えられる、ひとつの教会にひとりの司祭という従来型の小教区制度については、諸教会の交わりという観点からだけでなく、すべてのキリスト信者の交わりという次元からも見直されるべきです。現在いろいろな教区で『共同宣教司牧』が始められていますが、単なる司祭不足を解消するための一時的な緊急の手立てのように考えられるべきものではありません。むしろ、すべてのキリスト者の交わりという教会の本質を実現するための制度と考えるべきでしょう。」
聖職者中心主義の克服については、すべてのキリスト信者の交わりという観点からも考えられると思います。従来見られた、小教区中心主義あるいは聖職者中心主義的な姿勢を克服するために共同宣教司牧というのは確かに有効な手立てのひとつです。そして、特にすべてのキリスト信者の交わりを実現するための制度であると理解することができます。「単なる司祭不足を解消するための一時的な緊急の手立てのように考えられるべきものではありません。むしろ、すべてのキリスト者の交わりという教会の本質を実現するための制度と考えるべきでしょう」(『交わりとしての教会をめざして』14頁)。しかし、まことに残念ながら、いまだに皆さんにあっては「司祭がいなくなったらどうしよう」からの出発なのです。
わたしたちがめざしている共同宣教司牧の出発点はそういうところからではありません。司祭が少なくても多くても、司祭数の多寡とは全く関係なく、すべてのキリスト信者がそれぞれに与えられている使命をよりよく果たして行かなければならないということです。ですから、共同宣教司牧はすべてのキリスト信者の交わりという教会の本質を実現するための制度と言えます。そこを今一度確認していただきたい。これはわたくしがずっと言い続けていることです。
すべてのキリスト信者とは、信徒、修道者、司祭のことです。教皇様ご自身がおっしゃっておられる言葉です。「『あなたたちも行きなさい』。この呼びかけに対するこたえを、司教、司祭、修道者といった人たちだけに任せるようなことがあってはなりません。この呼びかけは、すべての人に向けられているからです。すなわち、信徒もまた一人ひとり主から呼びかけられ、教会のため、世界のために使命を授かっているのです。」(『信徒の召命と使命』2項)
共同宣教司牧は聖職者中心主義・小教区中心主義克服のための制度、すべてのキリスト者の交わりを深めるため、推進するための制度でありますが、このような共同宣教司牧の意義を再度皆で確認していただきたいと思います。わたくしの出した文書の中でもさまざまなところで述べられています。
司教教書『共同宣教司牧に向けた新たな宣教司牧評議会と地区共同宣教司牧委員会』の補遺でも、12頁のところでもう一度繰り返しています。横浜教区が推進しようとしている共同宣教司牧に関して、「すべてのキリスト信者の交わりという教会の本質を実現するための制度と考えるべきでしょう」ということを繰り返し述べてきました。すべてのキリスト信者、すなわち信徒・修道者・司祭は、洗礼と堅信の秘跡をとおして聖霊の賜物を受け、共に教会の使命に参与しており、その使命を果たすために共同責任を担っています。その意味で、共同宣教司牧とは「信徒・修道者・司祭が共同責任をもって教会の使命を果たす体制」であるとも言えます。あるいは、観点を変えて「それぞれの賜物を活かし合い、協力し合って働く協働体制」を指すとも言えましょう。
キリスト信者=神の民と三つの使命について
教会法典でキリスト信者について取り扱われているのは「神の民」の箇所です。公会議が始まったとき、集まった司教様方は、神の民=信徒、信徒をもって神の民だと理解していましたが、公会議が進むにつれて、だんだんとその理解が深められ、最終的には信徒だけでなく修道者や聖職者も含めた者をもって神の民であることが確認されました。ですから、神の民とは信徒・修道者・聖職者、すべてのキリスト信者をもって言われています。この公会議の教えを受けて、教会法典の第Ⅱ集「神の民」の冒頭のカノン204条の第1項ではキリスト信者をして次のような定義がなされています。「キリスト信者とは、洗礼によってキリストに合体されたことにより神の民とされた者である。キリスト信者はこのゆえに、各人各様に、キリストの祭司的、預言者的、王的任務にあずかり、各自に固有の立場に応じて、神が教会にこの世で果すように託した使命を実践するよう召されている。」
教会法典の中では「各人各様に」と言われていますが、特に信徒の皆さんについて、司教教書の補遺の「共同宣教司牧における信徒の役割と役務」のところで「第二バチカン公会議が示す信徒の役割は、三つの次元に及んでいます。その第一として、信徒も神の民であるキリスト信者全体に委ねられている教会の使命に参与しています」と述べています。ヨハネ・パウロ二世教皇は使徒的勧告『信徒の召命と使命』の中で次のように述べています。「わたしは教皇職についた当初から、第二バチカン公会議にならって、神の民全体の祭司、預言者、王としての尊厳を強調してきました。…第二バチカン公会議は、祭司、預言者(教師)、王であるキリストの使命が教会で受け継がれている事実とこの権能の神秘を思い起こさせました。一人残らず、神の民全体がこの三つの部分からなる使命に参与しているのです。この勧告によってもう一度、わたしは信徒の皆さんが、キリストの三つの部分からなる使命に参加していると語る公会議の非常に豊かな実り多い教えを、理解と愛をもって再読し、黙想し、身につけるよう勧めたいと思います。」「信徒が祭司、預言者、王としての三つの使命に参与することは、洗礼による塗油に始まり、堅信によって強められ、感謝の祭儀において実現され、生き生きと持続されていきます。もちろん、この参与の資格は、キリストの唯一のからだを形づくる信徒一人ひとりに与えられています。」(14項)
3.地区共同宣教司牧委員会の三部門の設置をめぐって
教皇様は、第二バチカン公会議をもって、一人残らず、神の民全体がこの三つの部分からなる使命に参与している、と言われていることを強調なさいます。単に司祭や修道者だけをもってのことではありません。信徒もこの三つの部分からなる使命に参与しているのです。そして、「この勧告によって、もう一度信徒の皆さんが理解と愛をもって再読し黙想し身につけるよう勧めたいと思います」と言っておられます。
この勧告を受けて、横浜教区では、共同宣教司牧にあって、地区共同宣教司牧委員会にあって、この三つの部門を設けてくださいとお願いしました。それをもってこの勧告に応えて行きましょうということです。今までは、どちらかというと、聖職者や修道者にお任せ、三つの部分からなる役割についても聖職者や修道者にお任せしておけばそれで事足れりということだった思います。かつてはそうであったでしょうが、今後は三者をもって、すなわち教会のメンバーとされているすべての人をもってこの使命を果たしていくことができるように。今まで以上に信徒の方々にもその理解を深めていただいて、実際にその任務を果たしていただきたいという願いをもって三部門を立ち上げました。
自らの力
教書の中では、特に三部門について扱っている5頁で次のように記しました。「わたしたちの教会がキリストの教会としてあり続けるためには、三つの欠かせない要素があります。すなわち、祈りがささげられ、信仰が伝えられ、愛の証がなされていることです。ですから、小教区としてもまた地区としても、それぞれ自らの力によって、信仰を伝え、祈りをささげ、人々に愛をそそいでいけるような共同体に成長することが期待されているのです。そこで、これらの課題に応えることができるよう各地区に三つの部門を設けてください。すなわち、①祈る力を育てる部門、②信仰を伝える力を育てる部門、③神の愛を証しする力を育てる部門です。各部門をもって自らの力で祈ることができる共同体づくり、自らの力で信仰を伝えることができる共同体づくり、自らの力で神の愛を証しすることができる共同体づくりに努めてください。」
「自らの力で」ということ・・・
今までは、聖職者・修道者に頼って任務が果たされて来ました。しかし今後は聖職者・修道者の力によらずしても、自らの力によって、その任務を果たしていくことができるようにということです。自らの力でということはそういう意味合いを持っています。わたしたちは、神の民として呼び集められています。神の救いはある意味で個人的にとらえられていたことがあったでしょうけれども、公会議はそれを正して、次のように言っています。
「どの時代においても、どの民族においても神をおそれ正義を行う人はすべて神に受け入れられる。しかし、神は人々を個別的に全く相互の連絡なしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に仕える一つの民として確立することを望んだ。」(『教会憲章』9項)
わたしたちは個人主義的な救いの理解をしていたのかも知れないし、またそうした理解をもって信仰生活を送っていたのかも知れません。ですから、一人ひとりが三つの部分からなるキリストの使命を果たすようにと召されていることも確かですけれども、それ以上に、その実践において神さまが望んでいらっしゃるのは「神の民として」だということです。その点を第二バチカン公会議は特に強調したのです。「神の民として」ということを真摯に受け止め、「キリスト者共同体として」使命を果たしていくことができるように、そういう意図をもって、目的をもって三部門を設置したということです。「共同体として」というところをご理解いただければと思います。
三部門
確かに新たに設けられた三部門はひとつの活動部門です。しかし、今までの活動を一掃して、ゼロから出発しようということではありません。今までの活動を生かしながら三部門を立ち上げていっていただければ良いのです。ただ、ある活動に関しては見直しが必要になるかも知れません。
そして、自らの力で活動できるようになってほしいという期待もあります。ですから、活動部門であると同時に養成部門、育てる部門でもあるということを理解していただきたいと思います。昨日、「共同宣教司牧サポートチーム神奈川」の活動を座長の鈴木勁介神父様が紹介してくださいましたが、長野ではかつて中信地区で、それに続いて北信地区でもこうした「育てる活動」がなされていました。静岡では静清地区を中心になされていましたが、残念ながら現在では途絶えてしまっています。地区単位で難しい場合は県単位で、育てることに力を尽くしていただければと思います。
養成ということについてわたくしが特に感じているのは、信仰が涵養されることの大切さです。養成にあたっては、まずは信仰そのものを育てることが重要です。サポートチームの紹介の中で特に二つの企画について強調されていましたが、教区長の意向をふまえてくださってのことと思います。すなわち「聖書を分かち合いながら信仰を深める講座」ともう一つは「それぞれが信仰を分かち合うかたちで行なわれている聖職者・修道者・信徒の三者合同の集い」です。わたしたちが三つの使命にあずかるといった時に、信仰に促されてというところがないと本来的でないし、また長続きもしないと思います。活動だけでなく信仰を育てる手立ても同時に考えていかねばならない、ある意味では霊性を深める、そういったことも考えていかなくてはならないと考えています。信仰を育てる、霊性を深めるといった時に三部門の活動に直接つながらないかも知れない。でもそこが抜け落ちてしまっては土台を欠くことになるのではないかと思います。
アンケートに「重複する部分はどうしたらいいですか?」というお尋ねがありました。キリストの三つの使命に参与しているといいますが、では、イエス・キリストにあってこの三つの働きがはっきりと線引きされたうえで救い主としての使命が果たされていたのかというと、決してそうではありません。キリストにあって、一つの位格において、三つの側面からの救いのわざがなされたということです。ですから、三部門について、当然、線引きできないこともあると思います。キリストの救い主としての使命をよりよく理解するために、教会はこの三つのカテゴリーをもってその使命を理解してきました。ですから、キリストの一つの位格において三つの使命が一つに統合されているように、わたしたち共同体にあっても、統合されているようなかたちでその使命を果たすことができればいいと思います。
わたくしが教書でながながと書いた三部門をして、「祈り伝え証しする」とまとめてくださったと伺っています。短く、要領よく、そして何よりも語呂がいいので、感心させられました。
優先課題
かつての地区福音宣教委員会には優先課題がありました。そのことについても司教教書でふれました。「1988年の地区福音宣教委員会発足と同時に、教区として優先的に取り組む課題が三つ設けられました。滞日・在日外国人との関わり、青少年の司牧、信徒の養成です。(それに、環境問題が加わり、三本柱から四本柱に変わりました。)今後とも教区の重要課題であることには変わりありません」(4頁)。これまでの優先課題を軽視しているわけではありませんし、これらの問題はすでに解決済みのものとして取り組まなくていいですと言っているのでもありません。ただ、「各地区の置かれている状況は様々であり、その優先課題も異なります。そこで、司牧書簡『横浜教区における改革の基本方針』で提示した多様性の中の一致の原則と補完性の原理原則に従い、今後は、教区としての共通の優先課題は設けず、各地区に任せることにします」ということです。
そこで、今後教区として画一的な優先課題を決めることはしません。各地区の置かれている状況は全く違うので、その状況に応じた優先課題を設置してください、とお願いしました。補完性の原理というのは、自らの力でできる限りのことはやっていただく。力及ばずの時に、上部の組織である教区として関わるようにいたします。つまり、自律性を尊重します、ということです。自ら優先課題を設定して、そして各地区それに取り組んでいただきたいということであります。地区だけではどうにもこの問題は解決できませんということがあればその時に教区は手助けしていきましょう。それが補完性の原理原則です。すでに書き記しましたが、地区のビジョンを作るときに地区としての優先課題を検討していただければありがたいということです。たとえば青少年の問題、青少年の信仰を含めた育成の問題については今後もわたしたちの重要な課題です。それを三部門のどこに位置づけるか?という際に、かかわりがあるので「信仰を伝える部門」に位置づけましょう、というような判断は地区にお任せしているのです。外国籍信徒の参加ということでは、昨日、分科会で「逗子や鎌倉の教会にはほとんど外国籍信徒の方はいません。しかし、同じ第4地区の中でも(京浜急行沿いの)横須賀三笠・横須賀大津の教会にはフィリピンの方やラテンアメリカの方たちが大勢おられる。自らの小教区にはなくても、地区としてはそういう問題があるということに関心を持つようになりました、気付かされました」というご発言がありました。
そして、以前、見直しの時に「この四つの優先課題全部取り組み、応えるのは無理です」と、特に山梨・長野・静岡の小さい地区の方たちがおっしゃっておられました。それも無理からぬことかな、と思いました。そのときも自分たちの身の丈に合った活動をもって進めればよいのではないですかとお答えしました。これからは、地区として優先課題を設定していただければと思います。
教区の委員会との連携
明確に三つに区分けすることはできませんけれども、教区内には例えば祈ることに関しては典礼委員会が、信仰を伝えるということについては信仰教育委員会(教会学校委員会)、青少年委員会あるいは聖書委員会があります。そして、証しする部門としては、福祉委員会や難民移住移動者委員会、部落問題委員会、正義と平和協議会等さまざまな委員会がありますけれども、地区としてこうした教区内にある委員会と連携もしくは協力しながら問題に取り組んでいくことも大切だと思います。今までのパーチェム、国際協力、船員司牧、という委員会を一つにまとめ、難民移住移動者委員会としました。今、本柳神父様が委員長を引き受けてくださり、静岡の西部地区や山梨・長野に自ら足を運んで現状を把握してくださっています。そして、難民移住移動者委員会としても、外国籍信徒の方々の問題に取り組もうとしてくださっています。各地区も、難民移住移動者委員会と連携しながら活動を進めてくださればと思います。小教区を超えて地区がありますが、地区ですべて充足しようとするのではなく、場合によっては教区の対応する機関・委員会があれば、そことも連携・協力してくださればありがたいと思います。中央協議会(わたくしたち司教団)のもとにはさまざまな委員会が置かれており、教区として、それを受けて窓口になっている(教区の)委員会があります。そことも連携してくださればいいと思っています。
教区内の教育施設
教区内の教育施設は幼稚園、保育園、小中高、大学までかなりの数に及びますが、皆さんご存じのように、各カトリックの教育機関においても様々な問題を抱えています。特に設立運営母体となっていた修道会の方たちが今までのようには関われなくなり、信徒の方々または一般の方々にも管理運営を委ねていかなければならない状況にあります。そのような状況にあって、これから先、カトリック学校としての使命をどのように果たして行ったらよいのかという共通の問題があります。横浜教区としては、一つの支えになればということで「チャプレン制度」を導入しました。カトリック校にあって霊的な指導のために教区から派遣したチャプレンをもって対応できればということであります。教区が設立運営母体となっている学校法人は三つあります。神奈川県には13校園をもっての「聖トマ学園」、静岡には13ヶ園をもっての「静岡聖母学園」、山梨県には3ヶ園をもっての「聖テレジア学園」があります。これらの学校法人の各園には必ずチャプレンが任命されています。毎年、小中高(42校)の校長会を開催していますが、その場で、地区の共同宣教司牧委員会の三部門、特に「信仰を伝える部門」とカトリック学校との連携を深めることを考えていただければありがたいということを申し上げました。
福祉関係の施設
福祉関係の施設もあります。「証しする部門」をもって何らかのかかわりを持ち、連携を深めていくことができればありがたいと思います。福祉関係の施設についても修道会が維持しきれない所が多々あります。強羅の「暁の星園」はシャルトルの聖パウロ会のシスター方が運営にあたってくださっていましたが、もうシスター方には力余るということで、プロテスタントの法人に引き取っていただきました。山手の司教館のすぐそばにある「愛児園」はフランシスケンのシスター方が設立からずっとかかわってくださっていましたが、これについてもプロテスタントの先生にお願いしました。しかし、「今後もカトリックの施設であったということを尊重していきたいと思います」と仰ってくださっています。ですから、できれば、そのような維持しきれなくなって手渡した施設についても何らかのかたちで教会の人たちが関わってくださったらと思います。できる範囲で、もちろん向こうの方が要望する範囲でということでありますが。
ひとつ、わたくしのところに依存症自助グループの方々から要望が寄せられています。皆さんご存じと思いますが、神奈川県には、アルコール依存症の「横浜マック」、「川崎マック」、「寿たんぽぽ」、薬物の依存については「横浜ダルク」、「川崎ダルク」、ギャンブルについては「ワンデーポート」「ヌジュミ」など、金沢教会には「ミモザ」という摂食障害の自助グループもあります。静岡にも静岡ダルク、駿河ダルク、山梨には山梨ダルク、長野には長野ダルクがあります。設立にあたって特にかかわった横浜マック・ダルク、川崎マック・ダルク、ワンデーポート、ヌジュミには教区から直接援助をして来たのですが、その他の施設についても困っていらっしゃるところがあります。特に静岡については、駿河ダルクの方たちが会合の場所を借りていたところ、近隣の住民が不安を覚えられ、出ていってほしいといわれ、困っておられたのです。教会の施設をお借りしたいのだがそれもかなわず、なんとか教会から援助をいただけないか、ということもありました。でも、地区内でそのような依存症を抱えている方々のグループがあるのに全く無関心な地区もあります。ただ一人司祭だけが直接かかわって、そのかかわりの中で支えられているというグループもあるのです。「今回の教区懇談会でそのことにふれさせていただきます。そうすれば、地区内にどんな依存症の自助グループがあるかということに関心を持ち、関わりをもっていただけるようになるのではないか」とお話ししました。できれば、皆さん、地区にどんな教育・福祉施設があるのか、ということを調べて、先方の要望があれば関わっていただければありがたいと思っています。教区内にはさまざまな施設・グループがあります。その方々からの要望に三部門をもって応えていってくださればありがたいと思っています。
組織・構成メンバー、小教区とのかかわり
教皇様自身、共同(協働)宣教司牧について言及しておられますし、奨励なさっています。「小教区を刷新し、活動のうえでいっそう確実な効果をあげるために、同じ地区にある小教区間のいろいろな協力の形が、制度的にも育てられなければなりません。」(『信徒の召命と使命』26項)
司教教書の「組織と運営」の項(6頁)で、地区共同宣教司牧委員会の構成メンバーの中に、小教区のメンバーを必ず含めてくださいとお願いしました。というのは、旧地区福音宣教委員会のメンバーの方たちがたびたび指摘していたのは、地区福音宣教委員会のメンバーには教会に場(受け皿)がない、場合によっては教会とのかかわりが全くありませんということでした。それは、地区福音宣教委員会と教会(特に教会委員会)とが全く別な形で活動し、かつ一部の人たちが繰返しメンバーとなって関わっていることが多かったために、地区福音宣教委員会が一部の人たちの活動になっていた、ということがあったからです。ですから、地区共同宣教司牧委員会にあっては、地区に属するすべての人たちが主体となって、ということを目的としていますから、各小教区には必ずその場(受け皿)がなければならないと思っています。構成メンバーを選ぶ際にも十分考慮していただきたいと思います。地区共同宣教司牧委員会が浮き上がった存在として地区にあるというのではなく、必ず小教区とのかかわりの中で、ということです。
構成メンバーのこともそうですが、
三部門は活動する部門であると同時に育てる部門でもあるとも先ほど申し上げましたが、小教区でも三部門に対応する組織を考えていかなければいけないと思います。小教区にはきちんとした組織として「祈り、伝え、証しする」部門の受け皿というか対応するところが必要なのです。全国組織に対応するようなかたちで教区内にはさまざまな委員会が設置されています。それと同じように地区と小教区との関係においても、地区共同宣教司牧委員会の三部門に対応する小教区の組織が必ず設置されていなければなりません。
横浜教区宣教司牧評議会主催
第一回教区懇談会「教区長の時間」
2011年6月29日
カトリック横浜司教区
〒231‐8652 横浜市中区山手町44