教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。
生涯続く入信後の養成(1)
教区報90号より
前回述べた「ミュスタゴギア」と言われる入信直後の養成は、聖霊降臨祭で終わります。しかし、入信後の信者としての人生は、永遠の生命への誕生である死の時まで、典礼暦年を生きながら続きます。
入信の秘跡の一つである洗礼は、ギリシャ語で「バプテスマ」といい、「浸す、沈める」を意味します。つまり洗礼は、神を知らずに、または忘れて生きてきた自分が水に沈められて死に、水から上がって新しいいのちに生きることを意味します。さらに聖霊の洗礼と言われる堅信を受けて、神のいのちである聖霊に沈められ、神のいのちの中で生きる人生を送ることになります。
しかし、実際には死んだはずの古い自分は生きています。そこで、入信後の信者としての人生は、神の思いと自分の思いの間を往き来する、葛藤の人生になります。
この葛藤の人生において大切なのは、何が自分の、そして人間の思いで、何が神の思いであるかを「識別」して生きることです。「識別」という言葉に慣れていない方もいらっしゃるかもしれませんが、キリストに従って歩むためには、とても大切なことです。
実は、「識別」は人生において特別なことではなく、入信の秘跡を受けた皆さんも、ご自分の人生を振り返る時、多くの識別をしてこられたと思います。直近においては、入門式を受けるかどうかを決断する時、それまでの人生に別れを告げて、キリストの弟子としての人生を歩むことの大切さを「識別」し、その道を選んだわけです。その決断が出来たのは、一つには入信志願式の時に歌った「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)という神の呼びかけがあって初めて可能だったわけです。入信以前にも、進路の選択、就職先の選択、既婚の方なら配偶者の選択と、すでに多くの「識別」を経て選択をした経験をお持ちのことでしょう。
それらの選択の時、キリスト者らしい「識別」がされていたかどうかは、確かではありませんが、入信後の識別は信仰の先達に伴われて、大きな選択から小さな日々の選択に至るまで、それが神の思いか人の思いかを確かめる「識別」になります。
次の機会には、人の思いから神の思いへと変えられていくために日々の識別を可能にする祈り方や、日常のリズムの作り方に触れてみたいと思います。