教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。
いやしの秘跡(「ゆるしの秘跡」・「病者の塗油の秘跡」)
教区報83号より
「いやしの秘跡」の中に、「ゆるしの秘跡」と「病者の塗油の秘跡」があります。「いやす」ということばの通り、「元気にしていただく、心のやすらぎ、喜び」が与えられる秘跡です。この秘跡にも、秘跡の特徴である、教会共同体の行いであること、御父のいつくしみの表われであること、「みことば」に始まり、御父との出会いに向かうこと、などが含まれます。
人の思いから神の思いへの「回心」を伴う「入信の秘跡」は、白い衣に象徴されるように、洗礼以前の人の思いから生じる罪がすべてゆるされ、キリストを表す白衣を着て御父に向かう新しい人生に生き始めます。しかし、主体としての弱いわたし、罪深いわたしは残るので、それまでの人生で染み付いた自己中心的な生き方が顔を出し、神の思いから外れた思い、言葉、行い、怠りに流されてしまう傾向があります。
人間の弱さをご存じの神は、預言者を通して「神に立ち帰りなさい」と繰り返し呼びかけられました。神は、罪びとが父の元に帰って来るのを、今か今かと待ち焦がれておられます。その神の姿は、ルカ福音書15章の、父に背を向け、父から離れ去った息子を待ちわびる父の姿に重なります。我に返って、父の元に立ち帰った息子を父は大喜びで迎え、父と子の関わりは回復されました。ゆるしの秘跡は喜びの秘跡です。
入信後の回心の機会はいろいろあります。秘跡を必要としない軽微な罪ならば、お互いにゆるし合う時、ミサを通して御父と和解する時、主の祈りを心から唱える時、御父のゆるしはそこにあります。その特に優れた機会が「ゆるしの秘跡」です。この秘跡によって、まず教会は罪びとを温かく迎え入れます。次にみことばを聴き、お互いに和解するならばゆるそうと待ち構えておられる神の「いつくしみ」に出会います。ゆるしの秘跡の準備は、以前のように「罪のリスト」を使うのではなく、みことばを通して父の愛に触れ、その愛に十分に応えられていない自分を、司祭を通してイエスに言い表します。
ゆるしのことばを受けて、罪で死に、愛で生きる霊のいのちを元気にしていただき、御父に向かって生きる人生をまた元気に生き始めます。
病者の塗油の秘跡の場合、体・心・社会・霊のいのちの内、どのいのちを元気にしていただくかは、いつくしみ深い父である神にお任せします。昔、言われていた臨終の場合だけではなく、たとえば、病気や手術を受けるために入院する前とか、高齢で衰弱した場合なども受けることができます。そして教会共同体が、祈りと思いやりをもってこの秘跡を受ける人を思いやることが大事です。神はその時その人に一番大切ないのちを回復し、元気にしてくださいます。遠慮せずに必要な時に必要な秘跡を受けて、死を過ぎ越せる永遠のいのちに元気に生きることにいたしましょう。