教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。
入信後の新信者への「ミュスタゴギア」(*1)
教区報62号より
典礼コーナーにおいて二回に亘って「子どものカテケーシスと典礼」を扱ってきました。そこで指摘されていたのは、子どものカテケーシスは、成人のカテケーシスに沿って行うべきだということでした。
そこに、入信までのカテケーシスのおおよその流れが述べられていたので、今回は、入信後のカテケージスである「ミュスタゴギア」の大切さと、復活祭から聖霊降臨祭までの復活節の典礼に凝縮されている、新信者養成のプログラムの目指すところを追ってみることにしました。
ミュスタゴギアの大切さ
「洗礼までは熱心に教え導いていただきましたし、洗礼式を盛大に祝っていただきましたが、受洗後は、神父様も信者の皆さんもあまり関心を示してくださらなくなりました。共同体の中に落ち着ける身の置き場を捜せずにいます」という声をよく聞きます。
入信の秘跡は、信仰生活・秘跡生活・共同体生活への入口であり、信者としての生活は洗礼から始まり生涯続くはずなのに、入信後の養成がなおざりにされているとするならば、それは大きな問題でしょう。
それを越えていくためには、信仰生活の基盤である「過越」を生きることが、入信前のカテケーシスで十分に伝えられ、典礼暦年、特に復活徹夜祭に向けての四旬節と聖なる三日間の典礼が受洗後の生き方に十分生かされいく配慮をすることが大切でしょう。さらに、入信前の養成が共同体の中で、交わりの体験として行われるように配慮されていることが肝要です。
この二つは、一九九七年に聖職者省から出された「カテケーシスのための一般総則」(*2)全般で特に大切にされていることです。同じ総則の八十八番で、入信後のカテケーシスであるミュスタゴギアは、新信者が秘跡の体験を通して、信仰共同体の中で、信仰生活を深めていく上で大切なものであると述べられています。
ミュスタゴギアは、つとにアンブロシウス、エルサレムのキュリロス、クリュソストモスなど多くの教父たちによって、新信者の養成として大切にされており、その著作にみられる「秘儀教話」(ミュスタゴギア)にその内容を読み取ることができます。
復活節に始まる、ミュスタゴギアの目指すこと
復活節の主日と主の祝祭日の典礼で朗読される「みことば」を通して、新信者とそれを迎える共同体は、A年からC年までどの年にも、使徒言行録から初代教会の様子を、福音を通しては、復活された主との出会いと、主から託された使命とを学びます。こうした養成は、復活節だけでなく、年間を通して、共同体の中で、主日毎に社会生活に向けてなされます。その目標は次のようにまとめることが出来るでしょう。
①
洗礼において、キリストの死に与ることによっていただいた復活の命に生涯生き続けるために、可能な限り、主日の典礼を中心とした生活のリズムを作る。
②
典礼の理解を深め、典礼暦にそった、秘跡を受けながらの生活の豊かさを学ぶ。
③
信者としての新しい生活が、信仰共同体の中で行われるように、共同体の中に自分の場を見つけられるように配慮する。
④
典礼奉仕への段階的な参加と、聖霊に導かれた祈りの生活への手ほどきがなされる。
⑤
社会生活の中で信仰を伝え、神の愛を証する力を養う。
こうした養成が、各小教区において、年間を通じて継続的になされるならば、教会共同体は、さらに生き生きしたものになっていくでしょう。
(教区典礼委員会)
(*1) 秘儀教話と訳される、入信後のカテケーシスを指す言葉。教父の著作に多くの秘儀教話が残されている。
(*2) 日本語訳はない。横浜教区典礼委員会による、典礼と関係する部分(全体の約10%)の試訳がある。