教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。
交わりの心を整える「主の祈り」
奉献文は、「すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」、に会衆一同力強く「アーメン」と応えて結ばれます。そしてミサは「交わりの儀(コムニオ)」に入ります。「コムニオ」は、聖体拝領と訳されていますが、「生き生きとした主との恵みの交わり、それに与らせていただく者相互の一致」(横浜教区報65号p.3参照)の意味を表すために、この文では「コムニオ」という言葉を使います。
わたしたちは今、パンとぶどう酒のうちに秘跡的に現存する主の食卓に与り、「いのちの糧」であるイエスの御からだと御血によって養われる秘跡に与ります。この秘跡を通してわたしたちはイエスと共にまた共同体の兄弟と共に、御父に出会い、わたしたちを御父にささげます。その準備として「主の祈り」を唱えることは意味深いことです。
ミサはキリストの体である「わたしたち」が聖霊の交わりのうちに、キリストを通して御父にささげる賛美と感謝の礼拝です。コムニオの準備としても同様にわたしたちは、イエス自ら教えてくださった「主の祈り」を唱え、キリストと共にわたしたちの心を御父に向けます。
「主の祈り」に含まれている七つの祈願の内容は、ミサ全体の祈りの中に表れます。たとえば集会祈願は、わたしたちの祈りを「聖霊において、キリストを通して、神なる父に向け」(総則54)てささげます。今回、コムニオの準備として「主の祈り」の二つの祈りを考えます。
「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」
「日ごとの糧(パン)」には、二つの意味があります。一つは広く、世界中の人々の体を日々養う糧と、いのちに必要な事柄を願います。もう一つ、もっと大切なことは、糧に聖体の意味が込められているという理解です(総則暫定版81参照)。「ことばの典礼」でみことばに養われたわたしたちは今、キリストのいのちのパンが与えられるように御父に祈ります。このパンは、十字架上で御父にささげられたキリストの御体であり、死者のうちから復活されたキリストの御体です。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)とイエスが言われたパンです。わたしたちは、死と復活をもってキリストが差し出してくださった御体と御血をいただき、イエスのいのちに結ばれ、わたしたちの共同体が一つに結ばれ、交わることのできる恵みを御父に祈り求めます。
「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」
ミサ開祭の回心の祈りで神に罪のゆるしを願いました。コムニオの前にもう一度御父にゆるしを願い、また、「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」(ルカ6:37)というイエスのみことばに従い、わたしたちが互いにゆるし合い、和解を約束します。このことは、神のゆるしと兄弟相互のゆるし合いが、神のみ旨を生き、教会共同体を築くためにどれほど大切かを示しています。罪のゆるしを祈ることがキリストをいただくふさわしい準備となります。
ミサの中でささげられる「主の祈り」の場合に、終りに「アーメン」を唱えません。それは、「悪からお救いください」という最後の祈願を発展させて、信者の共同体のために、悪の力からの解放を願い(総則暫定版81参照)、イエス・キリストが再び来られ、神の国が完成されることへの期待を表明する「副文」が唱えられるからです。副文の最後に会衆は、「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの」という栄唱をもって「主の祈り」を結び、ミサは、平和を願う祈りと平和の挨拶へと続きます。