祈りをささげる

教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。

敬老の日と病者の日




戦後始まった国民の祝日である「敬老の日」は、日本独特のもので、外国には見当たりません。またカトリックの『祝福の祈り』(*注1)に「高齢者への祝福」がありますが、典礼には「敬老の日」のための祈りはありません。日本の教会はこの祝日を上手に受け入れ、色々と工夫して祝っています。
敬老の日の祝福
 長い間、社会のために尽くし、教会のために働いてこられた高齢者を敬愛し、長寿を祝う習慣は、とても素晴らしいことです。しかしこの日、教会に集う高齢者は皆、比較的元気な人たちです。したがって厳密な意味で「病者の塗油」の対象者ではありません(*注2)。この日のミサの中で、例えば七十五歳以上の方々に「病者の塗油」が授けられることがあります。これは、昔の「終油の秘跡」のイメージを払拭するために行なわれてきたと思われます。しかし、その日に、元気に教会に来られる高齢者に一律に「病者の塗油」を授けることを考え直す時期に来ているかもしれません。この秘跡は本来、死の危険にある人々を対象とします。重い病の人、老齢のため体の衰弱を感じている人のための秘跡です。病気にならないための秘跡ではありません。予防注射のようなものとしてこの秘跡を理解するとしたら、この秘跡の意味を誤解していることになります。むしろ敬老の日には、『祝福の祈り』にあるような「高齢者への祝福」を与えるようにしてはいかがでしょうか。敬老の日にその祈りを唱えることはふさわしいと思います。敬老の日に、教会に来ることができない病者を見舞いに訪れる時、任命を受けた共同体の信徒、たとえば聖体奉仕者も、この祝福を与えることができます。
病者の日に病者の塗油を
教会には、「敬老の日」とは異なる「病者の日」があります。それは二月十一日のルルドの聖母の記念日です。ヨハネ・パウロ二世はこの日に病者に温かい配慮を示すことを望んでおられました。しかし、寒い季節ですので、多くの国では別の日、病者が来られる良い季節に「病者の日」を定めています。
 人が重病になると、自分の体、周りの人々との交わり、神との関わりが変わってきます。
体を自由に動かすことができないので、不安のうちに生きることになったり、また、仕事をやめなければならなかった病者は、今まで交流のあった人たちとの関わりが消えてしまいます。家族の者に自分が負担になっていると感じ、落胆することもあります。神のみ摂理も分からなくなり、神に信頼することが難しくなることもあります。
 病者の塗油の秘跡は、病者を大切になさっていたイエスとの出会いです。イエスが病気に悩んでいる人々を救ってくださるのです。重い皮膚病を患っていた十人が清くされた奇跡物語の中で、感謝するためにイエスのもとに戻ってきた一人だけが救われたことを考えるなら、完全な救いは体の救いだけではないことが分かります。司祭が病者の額と両手に塗油しながら願う救いは心身の救いです。「病者の塗油」のとき、司祭は「この聖なる塗油により、いつくしみ深い主・キリストが、聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放して、あなたを救い、起き上がらせてくださいますように」と祈ります。「起き上がらせる」とはただ身体の癒しを願うだけではなく、不安から、悩みから、場合によって失望から起き上がらせることを意味します。体の癒しとともに心の癒しも大切です。
 はっきりした病気でなくても、弱り始めた高齢者も、不安を乗り越えて、晩年の試練を神にささげることができるように病者の塗油を受けることができます。自分の身を愛し続け、周りの人の世話を感謝のうちに受け入れ、神への信頼を強め、キリスト者として信仰、希望、愛の模範になることができるように恵みをいただくことができます。病者も高齢者も身体の状態が変わらなければ、改めて病者の秘跡を受けることはありません。
 最後に「病者の塗油」の秘跡を受ける前に、心のふさわしい準備を忘れないようにいたしましょう。
(教区典礼委員会)
(1) 札幌教区典礼委員会編
  あかし書房
(2) カトリック儀式書
「病者の塗油」9ページ