祈りをささげる

教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。

座長の席




聖堂の内陣には、三つの大切な場があります、それは祭壇の場、朗読台の場、司祭の席の場です。それぞれの場で行われる典礼の機能は異なります。司祭は祭壇で感謝の祭儀をささげ、朗読台でみことばを伝え、司祭の席で共同体の祈りを導き、共同体の名によって神に祈るのです。各場で行うべきことを行い、また行うべき以外のことを行わないようにするなら、ミサの各部分が持つ役割が明らかになってきます。第二バチカン公会議以前には、挨拶、集会祈願、聖書朗読、感謝の祭儀のすべては祭壇で行われていました。しかし、祭壇ですべてが行われると、祭壇はエウカリスティアの食卓であることの意味が薄くなってしまいます。以前にも司祭の席は確かにありましたが、その席が使われたのは歌ミサのときだけでした。その席で司祭は、栄光の賛歌のような長い聖歌が歌われていた間、また、他の奉仕者が何かをする間、休むために座っていただけです。
落ち着いた、品位のある典礼を行うために空間を丁寧に利用することが大事です。司祭と奉仕者が、一つの場所から他の場所に動くことには意味があります。動きによって典礼の進み方が明らかになります。典礼刷新以前に建築された聖堂では、朗読台と司祭の席の場をあまり考慮に入れていなかったので、一つの場から他の場に移ることは不可能になっていました。あるいは、司祭の席は祭壇の背後にあって、司祭が座っていると、その姿が見えないこともありました。
今回の典礼コーナーで、特に座長である司祭の席について考えてみましょう。カテドラル(司教座聖堂)という語は、座長の席の大切さを教えてくれます。司教の聖堂は「司教の座」と呼ばれています。司教の座は教区の中心だと考えるからです。その席から司教は教区民に福音を伝え、秘跡を授けます。
最初の司教座聖堂では司教の席が内陣の奥にあって、共同体に向かって置かれていました。祭壇の背後に装飾画が飾られるようになってから、司教の席が祭壇の左側に置かれるようになりましたが、共同体に向かってではなく、祭壇に向かって置かれていました。その結果、横浜司教座聖堂で見られるように、席から共同体との対話はできなくなってしまいました。
家具自体、何かを語っています。司祭の席は、典礼には座長がいることを語っています。典礼において、共同体には大切な役割がありますが、典礼がキリストの業であることを示すために、座長が必要です。それを表すのが司祭の席です。大祭司キリストの秘跡である司祭がいなければミサはありえません。その席で、司祭は式の開祭と閉祭を告げ、共同体の祈りを導き、共同体と対話し、共同体の名によって神に向かって祈りをささげます。(注)
司祭の席は玉座のような印象を与えることを避けるべきですが、同時に、ふさわしいもので、ふさわしい場所に置くべきです。座長の席は共同体の席からあまり離れて、あるいはいくつかの段の上にあるならば、その席は共同体との対話の場よりも、支配者の場になってしまうこともありえます。座長を務める司祭は、弟子の足を洗ったイエスのしるしですから、支配者のような態度ではありえません。
その席で司祭は、神への祈りをささげるときと、共同体と対話するときには立っています。また、聖書を聴くときと、共同体とともに答唱詩編を味わうときには座っています。それぞれのとき、司祭の動きは異なります。神に祈るときに会衆を見ることはありませんが、会衆と対話するときには会衆を見ています。また聖書を聴くとき、ほかのことに気が散らないように注意しなければなりません。そのときは、説教のノートを読み直したり、奉仕者に注意したりするときではありません。流れからそれると、共同体が聖書を聴くとき集中しにくくなり、沈黙の間のとき気が散ることがあります。また、司祭だけではなく、奉仕者たちも座る態度に注意しなければなりません。姿勢を正し、足を組むことなどがないように注意すべきです。
司祭が座長の席で共同体と対話することは、主イエスと神の民との出会いを示すことになるので、できる限り司祭の席を生かすように努めていきたいものです。


注 ローマ・ミサ典礼書の総則 310