教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。
パンを裂くこと
初代教会
初代教会のとき「パンを裂く」という言葉はミサ全体を意味していました。この「裂く」動作がどんなに重んじられていたかが分かります。ルカは「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録二・四十二)と述べています。パウロが訪れた教会も同じ言い方をしていました。「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をした」(使徒言行録二十・七)のです。
それはキリストご自身の動作を思い出していたからです。最後の晩さんのとき、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与え」(ルカ二十二・十九)ました。初代教会の信者にとって、キリストの御からだを分かち合うことはミサの大切な部分であったので、この動作でミサ全体を表していたのです。
しかし十三世紀から、信徒用の小さいホスチアが準備されるようになり、また、司祭はミサを捧げるとき会衆に背を向けていたので、信徒は「裂く」動作を見ることができませんでした。司祭のホスチアだけが裂かれたので、分かち合いの意味は完全に消えてしまい、これは第二バチカン公会議まで続いていました、
どうして司祭のホスチアは大きいのですか、と尋ねると、聖変化されたホスチアを信徒に見せるためでしょう、という答えが返ってきます。その意味がなくはありませんが、実は、パンを裂くために大きいのです。パウロは、「皆が一つのパンを分けて食べるからです」(Ⅰコリント十・十七)、と言っています。分かち合って食べるので、司祭は裂かれたパンの一部を少なくとも幾人かの信者に授与することが望まれています。(二〇〇四年「ローマ・ミサ典礼書の総則」三二一参照)
第二バチカン公会議後
典礼の刷新により、「裂く」動作が再び重んじられ、その神学的意味も明確になりました。それは「ローマ・ミサ典礼書の総則」(二〇〇四年)によく表れています。
「パンを裂くことと信者の拝領によって、使徒たちがキリスト自身の手から受けたのと同じように、信者がどれほど多くても、信者は一つのパンから主のからだを受け、一つの杯から主の血を受ける」(七二―三)。
「大勢の信者が、一つの生命のパン ― それは世の救いのために死んで復活したキリストである ― にともにあずかることによって、一つのからだとなることを意味している(Ⅰコリント十・十七)」(八三)。
勧められること
一.パンは一つなので、奉納行列のとき、大きいパンも小さいパンも一つの器にのせて祭壇に運ぶ。
二.ミサにあずかる会衆が多くない場合、分かち合う意味をはっきりさせるために、大きなホスチア数枚だけでミサを捧げる。
(教区典礼委員会)