教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。
会衆の席
聖堂の中心であり、キリストの最後の晩さんを記念して行なわれる「祭壇」、神のことばを伝える「朗読台」、共同体の祈りを導く「座長の席」について、これまで考えてきました。(注一) 今回は、「会衆の席」について考えてみましょう。会衆はミサの集いの本質的な部分の一つだからです。ミサは司祭の個人的信心行ではありえません。共同体を代表する少なくとも一人の信徒がいなければ、司祭はミサをささげることはできないことになっています。「正当かつ合理的理由がない限り司祭は、少なくとも一人の信者の参加も得られない場合はミサを挙行してはならない」と定められています。(注二)
ミサをささげるのは神の民全体です。キリストは、ことばと聖体の秘跡の中に現存する前に、まずは集められた会衆の中に現存することを忘れてはなりません。聖書に、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と書かれているとおりです。
聖堂は「神の家」というよりも「神の民の家」と言われます。キリストの死と復活の記念をするために、キリストの弟子たちが集まるところです。ミサをささげるのは司祭だけではなく、洗礼を受けたすべての人たちであることを強調しすぎることはありません。もちろん叙階の秘跡を受けた司祭の司式がなければミサもありえません。それは信者を呼び集め、福音を語り、キリストを御父にささげるのはキリストご自身であることを表すためです。また、集いの座長としてキリストの奉献に会衆が心を込めて与ることができるように導くためです。
典礼の歴史の流れの中で、内陣と会衆席の区別があまりにも目立つようになりました。内陣は会衆席よりも二、三段高くなり、第二バチカン公会議まで、内陣と会衆席の間には聖体拝領台があり、ほとんどいつも閉まったままでした。また司祭・助祭、侍者以外の誰も内陣に入ってはいけなかったのです。朗読の奉仕も司祭が自分で行っていました。ですから、祭壇を囲んでミサをささげるということは考えられませんでした。また、司祭は、壁に付いた祭壇に向かってミサをささげ、会衆もみな祭壇に向かっていたので、共にミサに与っている人の背中しか見えませんでした。このような状況の中で、一つの共同体としてミサをささげるという意識を持つことはできませんでした。
会衆の受動的な態度をさらに強めたのは、聖歌隊の主役的存在でした。司祭のラテン語の呼びかけに応え、主としてラテン語の聖歌を歌うのは、特別な席を割り当てられた聖歌隊の役割でした。会衆から聖歌がほとんど奪われていたと言えるほどです。司式者との関係は説教(聖書よりも公教要理)ぐらいでした。会衆はミサの観客にすぎず、惨めな思いでした。ミサは司祭一人の独占的な仕事でした。入信(イニシエーション)の秘跡(洗礼、堅信、聖体)についての信者の興味が薄れていくにつれて、叙階式と修道者の誓願式が一番興味深いイベントになりました。まさに、聖職者中心主義だった、と言えるでしょう。
幸いに第二バチカン公会議のおかげで、典礼は大きく変わりました。ミサをささげるのは司祭だけではなく、教会全体であることが強調されるようになりました。典礼憲章は「聖なる典礼の刷新と促進にあたって、全信徒の充実した、行動的参加に最も留意すべきである」(注三)、とうたっています。さらに信徒は、イエスと共に自分をささげることを自覚するようになりました。
それを助けるために、聖体拝領台がなくなり、朗読奉仕者、司教から任命を受けた聖体奉仕者も会衆の席から出て内陣に入り、聖歌隊は会衆の中にいて、会衆と共に奉仕するようになりました。教会建築の場合にも、信徒席は祭壇を囲むように工夫するように変わってきました。この変化に伴い、信徒もまた、ミサに積極的に参加するように努力すべきです。会衆席の前のほうに座り、司祭のことばに応え、一緒に、神を賛美し、感謝する聖歌を元気よく歌うように努めて欲しいと思います。
会衆の中には老若男女、日本人も外国籍信徒もいます。私たちが隣の人を選んだのではなく、神から与えられた兄弟姉妹なので、キリストの一つの家族をなしているのです。そのために、ミサの典礼は「わたし」という言葉よりも「私たち」という言葉が多く使われます。一緒に神のことばを聴き、心を一つにして聖歌を歌い、共にキリストと自分たちをささげ、一緒にキリストの聖なるパンを分かち合うのです。「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように」(注四)。
会衆が積極的にミサ、また他の秘跡に参加するためには、場所の設定の問題だけではありません。司式者と会衆のコミュニケーションも大切です。司式者は、自分の姿がよく見えるように、その言葉がよく聞き取れるように配慮することが大切です。司式者は落ち着いて動作を行い、よい牧者として会衆を導くことができるように気を配らなければ、会衆と心を一つにすることはできません。
最後に、聖堂は神の民の家ですからミサが始まる前に隣の人に挨拶したり、ニュースを交わしたりすることも考えられます。しかし、ミサは世間的な集会とは違うので、神の世界に向かうための心の静けさが必要となります。ミサが始まる五分前にベルを鳴らしたり、オルガンを伴奏したりすることによって静けさを保つようにすることが望ましいと思います。
注一:教区報54、55、57
注二: 教会法906
注三: 典礼憲章14
注四: 第二奉献文
(教区典礼委員会)