教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。
ミサからの派遣
閉祭の儀について考えてみましょう。必要に応じて行われる短いお知らせの後、司祭は「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」と会衆に派遣の祝福を与え、会衆は「アーメン」と応えます。
続いて司祭は、「行きましょう、主の平和のうちに」という派遣のことばをもってミサを結びます。ミサの中で、みことばといのちのパンによってキリストと結ばれたわたしたちは、この派遣の祝福によって、キリストによる救いの良い知らせを人々にもたらすために、各自の生活と活動の場に派遣されるのです。
派遣の祝福は神の祝福です。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ二十:二十一)と言われたキリストご自身が、わたしたちの罪を贖い、神の国をこの地上に建設するために御父から派遣されて来られたように、今、わたしたちは、キリストによって派遣されます。
イエスは天に上げられる前に、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ二十八:十九~二十)と言って、弟子たちに使命を託されました。
教皇フランシスコは「二〇一三年 世界宣教の日」メッセージで、暗闇や苦しみと暴力に満ちていると思われる世界で、キリスト者はイエス・キリストの福音を告げ知らせることによって希望をもたらすことができる、また、わたしたちはつねにキリストとの出会いを勇気と喜びをもって提供しながら福音の使者とならなければなりませんとも述べられました。入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体)を受けたわたしたち信徒は、十二人の使徒や司祭、修道者と同じように福音を伝える使命を担っています。
では、実際に社会に派遣されて、何をどうすればいいのでしょうか?「財布も袋も履物も持って行くな」(ルカ十:四)、と言って弟子たちを派遣される際の主のことばは、神のみを頼りにしなさいという、まさに派遣の原点となるものです。わたしたちは、家庭において、学校において、働く場において、自分にできる言葉と行いをもって、キリストと共に、キリストの思いを伝えることが立派な証しになり宣教となるでしょう。
閉祭では、お知らせが中心とならぬよう、派遣がはっきり意識される工夫が必要です。司祭は信徒を「行きましょう」と送り出しますが、これはラテン語では “Ite, missa est “ といい、「行け!」という強い意味があります。派遣の歌は、信徒が聖堂に留まらぬよう元気よく歌いながら出て行ける聖歌を選ぶ、オルガン演奏のみにするなど、それぞれの共同体で考えてみてはどうでしょうか。
(教区典礼委員会)